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「伝説のタイブレイク」1980年 ジョン・マッケンロー VS ビヨン・ボルグ ウインブルドン決勝 第4セット

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1980年、ウインブルドン決勝、第4セット 歴史に残る伝説のタイブレイク

タイブレイク

  • どちらかが7ポイントを取った時点で終了し、勝者がそのセットを獲得する。ただしポイントが6対6になった場合はその後、2ポイント差がつくまで続けられる。両者のポイントが6の倍数になったときにチェンジエンドを行う。

タイブレイクで、2ポイントだけ先取すればすべての勝負はそこで終わる…。
しかし、人間は1ポイント取れただけで、おごり、ゆとり、余裕が出てきてしまう。1ポイント取られた側は、焦り、気迫、祈り、執着が出てくる。
 その駆け引きがマッケンローとボルグに20分にも渡るタイブレイク戦をくりひろげさせた。

スポンサーである、セルジオ・タッキーニフィラのウェア、ナイキ・フォレストヒルズとディアドラのシューズ、そして、マッケンローの手には、ウィルソン・ジャッククレマー・プロスタッフ(ダンロップのマックスフライ、MAX200G契約前)、ボルグの手には、ドネー・ボルグ・プロ。

これらの製品はこのタイブレイクが生んだブームとも言える。

ビヨン・ボルグ
ウィンブルドンのシングルスで5回優勝という大記録を持つビヨン・ボルグ。
その記録はピート・サンプラスによって破られたものの、今なおボルグがウィンブルドンにおける巨人たちの頂点に立っていることは2つの統計によって示されるだろう。

すなわち、1976年から1980年までの5連覇と、テニスにおける最も困難な「ダブル」を連続3年でもぎ取ったという事実。それは全仏オープンのクレーコートとウィンブルドンの芝コートでの勝利を意味する。

まったく質の異なるコートで、短期間に連続してチャンピオンとなることは以前にも例がある。
最もよく知られているのはロッド・レーバーの偉業で、1962年と1969年のグランドスラムだ。
しかしボルグ以降は、ただ1人アンドレ・アガシが、全仏オープンとウィンブルドンの両方で勝利を収めているのみだ。しかも彼の場合、両方の達成に7年の隔たりがある。

ボルグの天賦の才にも払わされるべき代償があった。しかもそれは重い代償だった。

8年という短期間に、4大大会のシングルスで11回優勝(全仏オープン6回、ウィンブルドン5回)を経歴に加えた後、ボルグは26歳でテニスをやめているのだ。その尋常ならざる試練により精神的に消耗し、肉体的に疲弊しきってのことだった。1人のアスリートが一心不乱のひたむきさで、あれほどの成功を収めるに至ったという意味において、彼のような選手がテニス界に現れることはまずないだろう。

1980年のマッケンローとの決勝には、その強い勝利への意志が必要だった。ウィンブルドン史上最高の闘いであると多くが推挙する試合。総力をぶつけてくるマッケンローの強襲に、第1セットを1-6で落とした後、ボルグは続く2セットを7-5、6-3で奪った。

第4セットはゲーム数5-4とし、チャンピオンシップ・ポイントを2度迎える。しかしマッケンローは危機をやり過ごし、試合を振り出しに戻すべくタイブレークに持ち込んだ。これはウィンブルドンの最も記憶に残る場面となった。さらにマッチポイントを5回しのぎ、18-16でこのセットを制した。

名高い精神力によってボルグは第5セットを8-6で辛くも奪取して、ウィンブルドン5連覇を成し遂げたのだが、その12か月後、同じ2人が再び決勝で闘ったときには、ボルグのあの精神力が影も形もなかった。ボルグは燃え尽きようとしていた。

「私は再びウィンブルドンの決勝に立っていた。プレーするには最高の試合だ」と彼は最近語っている。「しかし火花の散る感覚はもうなかった。」

マッケンローが4-6、7-6、7-6、6-4で勝利した。ボルグの続く言葉が彼のすべてを語っている。

「私が闘ってきたウィンブルドン決勝の中でも、あれこそ勝たなければならない試合だったはずだが、負けても気にならなかった。それで去り時だと決めたんだ。」

ロナルド・アトキン記 (C)AELTC
http://www1.nhk.or.jp/sports/wimbledon/legends/b_borg.html

 

ジョン・マッケンロー

ジョン・マッケンローは、ウィンブルドンのシングルスを3度制覇する偉業を成し遂げ、男子テニス史上最も成功したプレーヤーの一人として、テニス界にその名を刻んだ。

しかし、マッケンローと他の選手たちの一番の違いは、なんと言っても彼の持つカリスマ性、才気、態度、ショットの美しさだろう。このような要素も手伝って、彼は長く記憶に残る選手となっている。

マッケンローの言動は往々にして模範的とは言えず、目に余るものも少なくなかった。「度が過ぎていた」と母国アメリカではよく言われるが、後年になってマッケンロー自身も自らの非を認めている。いわく、世界を相手に戦っていた若い頃にもう少し苦い経験があったなら、自分をコントロールし、怒りを抑えることを学んでいたかもしれない、と。審判たちも、自制心ある彼を望んでいたことだろう。

しかし、世界のトップでしのぎを削るアスリートなら、大抵、内面に動物的なものを抱えているものだ。多くの選手はそれをどうにか内にとどめているが、注目を集める選手というのは、それをコントロールできなくなるのだろうか。マッケンローは自らの動物的な部分を解き放っただけではなく、さらに煽ってしまったのだ。とは言うものの、テニスファンの中には、荒々しくなるマッケンローに魅力を感じる人もいる、というのも事実だ。

マッケンローの魅力といえば、もちろんプレースタイルも忘れてはいけない。超人的だと言ってよいだろう。柔軟な手首と瞬時に下される的確な判断、そして、そこから生まれる繊細さは、観客はもちろん対戦相手までをも魅了した。現在は大した技術もないパワー・プレーヤーが多いが、マッケンローのプレーは実に変化に富んでいた。

また、視力が良く反射神経も鋭かったので、どんなサーブでもすぐに狙った場所へ打ち返すことができた。

1980年、マッケンローはウィンブルドンの決勝戦でビヨン・ボルグと対戦した。これは、ウィンブルドン史上最も有名な決勝戦だと言っても過言ではない。第4セットでは20分に及ぶ熾烈なタイブレイクを制したが、第5セットを8-6で落としタイトル獲得はならなかった。しかしその1年後、再びウィンブルドンの決勝に進んだマッケンローは、ボルグを相手に前年の雪辱を果たした。これが、マッケンローにとって初のウィンブルドン制覇である。

スポーツにおいてよきライバル関係というのは欠かせないものであるが、マッケンローとボルグは、テニス史上最高のライバルだったと言える。感情を爆発させる「炎」のマッケンローと、冷静沈着な「氷」のボルグという、対照的な2人だった。

スポーツは観衆をも巻き込んだ一大イベントであるが、競技者としてのマッケンローにとっても、常にそうであった。例えば観衆がイラつけば、マッケンローもまたイラつきをあらわにした。彼は、常に感情を表に出すタイプの人物だった。

彼の偉業は今もなお語り継がれている。現在は、試合の解説でも活躍しているが、その幅広い知識やユーモア、鋭いコメントに、今も色あせることのない強いオーラを感じることができる。マッケンローは、大きな矛盾を抱えた人物と見られる向きもあるだろう。彼は、ウィンブルドンやデビスカップ、テニスの伝統をこよなく愛した半面、ロックミュージックの大ファンで反逆児のイメージもつきまとった。

いずれにせよ、テニスに興味のない人々にさえ、ジョン・パトリック・マッケンローの名前は知られているだろう。それほど有名なスポーツ選手は、他にそういるものではない。

マイク・ドノバン記 (C)AELTC

http://www1.nhk.or.jp/sports/wimbledon/legends/j_mcenroe.html


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