ジョージ・ガーシュインの音楽ビジネスモデル

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映画「ジャズ・シンガー(1927年)」で、当たったアル・ジョルスンは、翌年のトーキー「The Singing Fool (1928年)」でサウンドトラックのsonny boyを レコードで200万枚、楽譜が125万枚売れた。

これをきっかけにして、楽譜販売とレコード販売の数値は逆転していった。

特筆するのは、楽譜の販売ビジネスが、レコード以前の音楽ビジネスの主流だったことだ。 
Rhapsody In Blueの作曲者のジョージ・ガーシュウィン(1898〜1937年)でさえ、デパートでピアノを弾きながら楽譜を売り、音楽出版社から給与をもらうという給与&印税(歩合)のビジネスモデルであったことだ。

レコードメディアが普及していなかったのだから仕方がないだろうが、現在の作曲者は、CDで販売されることを前提に作曲しているが、これからはそうとは限らない。

AKB48のプロデューサー秋元康氏は、「カチューシャ」の作詞に対して400曲もの楽曲を用意させその中から選んだ。さらに、ライブ、グッズ販売、CM、キャラクター販売促進、Google+、YouTubeとの提携など、 音楽産業そのものの定義が広義となっている。

電子書籍前提の著者は、印刷された紙の本を前提に執筆しないのと一緒のことだ。

レコードというメディアが変化し、映画を見てからレコードを購入するという購買行動を人々はゆっくりと学習しはじめたのだ。

レコードにLP(1948年LongPlay 33.1/3rpm)盤や EP盤(1949年Extended Play45rpm)SP盤(Standard Play78rpm)らが登場するまでに、初のトーキー映画「ジャズシンガー」後20年もの歳月を必要としたことを考えると、
メディアの進化論的には、30歳になってようやく成人(ビジネス)になると考えるべきであろう

 

ガーシュウィンのビジネスモデルは、楽譜販売

 

この当時、レコードは普及してなかったので、音楽はピアノなどの楽器を用いて生で演奏するものだった。そのため、音楽産業とは楽譜販売業のことだった。したがって、楽譜を販売する企業は、売りたい曲のプロモーションのために常時演奏者(ピアニスト)を必要としていた。

そんな楽譜商が軒を並べていたのが、ニューヨークの有名な通り「ティン・パン・アリー」だった。「ティン・パン」は、ピアニストたちが一日中ピアノの鍵盤を「ティン!パン!」と叩いていたところから名付けられた。

15歳(1913年)で高校を中退したガーシュインは、その通りにある企業の中でも大手に属する「レミック社」のオーディションを受けたところ、見事に合格した。さっそくソング・プラッカーとしての仕事を始めた彼は、売れ筋ナンバー1のラグタイムのテクニックを磨くため、優秀な黒人ラグタイム・ピアニストが出演する店を巡り歩いた。

ソング・プラッカーというのは、一日中楽譜売り場にいて、お客さんが選んだ楽譜にのっている曲を、実際にピアノで弾いて見せるデモンストレーション・ピアニストで、それは仕事とはいえ、彼にとっては至福の時でもあった。そうして彼はどんどんそのテクニックを盗み取り、白人としては文句無しのナンバー1ピアニストにのし上がっていった。

 

レコード、CDを売ることが音楽産業だったのは、たかだか90年間。

いまは、レコードが発明される前、音楽はどうだったのか?を考え、イノベーションする時期である。

聞いてもらえる機会を増やさない限り、市場は広がらない。

それを自ら鍵をかけている間は暗黒時代。

当然、楽器も売れない、楽器が売れなければ、アーティストも登場しない。

不毛マーケティングを実践するばかり。

音楽産業が音楽を殺している

音楽を自由にしよう!

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