ソーシャルの次の世界。インターネットは宗教以上の心のよりどころになる!ソーシャルに何かを求めるのではなく、自分がソーシャルに何をできるかを考えようではないか?
2011年08月07日(日)
NHK BS 100年インタビューで立花隆さんが、ラテン語で知:scientia[スキエンティア]を解説していた。
知:scientia[スキエンティア]とは、科学 サイエンスの語源ということだ。
そう、「科学」とは「知」の探求である。
- 2011 年8月7日(日)
- 「評論家・ジャーナリスト 立花 隆」
- ゲストは評論家・ジャーナリストの立花隆(71)。徹底した調査をベースに時代を見つめ、著書「田中角栄研究」「日本共産党の研究」ではそれぞれ体制側の「権力」も反体制側の「権威」も大きく揺るがすなど、幅広いテーマで言論活動を続けてきた。立花の半世紀近くの取材活動の大きなテーマが科学。宇宙、生命科学を中心に最先端を見つめその可能性を伝えてきたが、今その基盤が揺らいでいることを危惧している。若者の科学離れ、国家予算の削減などが「科学立国ニッポン」を危うくしているというのだ。東日本大震災では原発問題も含め 改めて科学のあり方を問い直そうとしている。
- http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=9320110807
番組の中で、「科学こそ、宗教や国境や偏見に左右されないもの」という趣旨を立花隆さんはおっしゃられていた。
まさにそうだと思った。
その後、NHK BSは世界遺産へと番組が進み、宗教が人類の知の総和を高めてきたと解説していた。
このふたつの番組で、インスパイアされてソーシャルの次の世界を考えてみた…。
人間は、何のために生まれ、何のために死にゆくのか?
生まれ、育ち、繁殖しつづけ、DNAを残し、その永遠に終焉のないサスティナブルなサイクルを、地球上に生まれた森羅万象の生物が繰り返してきた。
しかし、人類はひとつの大英断をいつしかくだしたはずだ。
それは、「何のために生きるのか?」という疑問を持つという「決断」だ。
日々、確実に訪れる死への時を、365日というものさしではかりはじめ、自分の生殖能力が高いうちに、より強い遠い遺伝子を求めて、殺戮さえも恐れない行為をくりかえしてきた人類がだ。
そこには、死への準備としての生きている証しを求めたのだ。
それは、死への恐怖への克服だ。
生きるという意味をみいだせないまま、科学的に量的にはかりしれ、必ず訪れる「死」への克服のために、生み出したソリューションが「宗教」だったのだ。
また、宗教はまるで、101匹目の猿、同様に、それぞれの地域で独自の価値観をもった宗教を生んだ。
宗教はいつの世にも、人類に先天的にうえつけられていた特性ではなく、たまたま生まれてきた国や親による、後天的な影響によって、構築されたメディアであるということを理解しておかなければならない。
信じているすべての事は、「たまたま」の産物なのである。
人類が生み出した「神(God)」という「Good!」から一文字たりない創造物を…。
「L」を足すことにより、希少鉱物であり、物々交換のわずらわしさを一気に解消し、普遍の価値を持続させるチカラをもった 「GOLD」という便利なツールも誕生した。
地球上に生まれた人類の目標である「宗教」は、家族、村、そして国境を超えて大ブームを起こす。芸術や音楽、印刷物、すべての人類の「文化」は「宗教」を拡散するために、生み出されたソリューションツールだったのである。
さらに、人類は、世界ごとに違うローカルなルールである「宗教」と争い、それによって無意味な戦争を繰り返してきた。永遠の命を願って生まれた宗教によって、短命となってしまうのはなんとも皮肉なことだろう。しかし、もしも、全世界が同じ宗教であったら、いがみあうことなく、全人類はとっくに地球の環境資源を消費しつくしていたのかもしれない。
宗教は、人類の「知」の総和を爆発的に高めてきた。そして、仮想の天敵を倒すための「兵器」を開発し、よりたくさんのGOLDを流通させ、宗教だけではなく、経済的なモチベーションの総和も集積してきた。
人類は「火」を制覇することにより、他の動物から実を守るだけでなく、地球上の生物を駆逐することができた。
そして「電気」を制覇することにより、視聴覚の「ジャンパー」となり、快適な温度帯や空間、移動、家事などと暮らしぶりを変えてきた。
そして、20世紀は、戦争以外の経済活動としての「エンターテインメント」というマスメディア産業を生みだした。
1.印刷 グーテンベルグがブドウの圧搾機からインスパイア
2.写真 ニエプス ダゲール 写生装置としてのカメラ・オブスキュラの固定化
3.レコード エジソンのモールス信号の録音化からのスピンアウト
4.映画 エジソンのキネトスコープパーラーのビジネスモデルチェンジ
5.ラジオ マルコーニのモールス信号送信に音声コンテンツの商業化
6.テレビ ラジオ技術と映画制作技術、フリーミアムモデルのCMと「生」の一斉同報の融合化
7.インターネット パソコン同志をネットワークで網羅化
7つの大発明は、すべて前時代のメディアの特性から「たまたま」生まれたものばかりだ。誰も計画的に予測し、生んだものはひとつもない。
すべての発明は、当初は最適化をもたらすための「ルーティン化」であるが、時を隔てることにより、予想もしなかったメディアへと変革する。
数々の基礎技術の発展形を最大化してきたものが、突然変異を起こして次の時代の中心へと変わっていく。
それらを支えるのは、インスパイアされる総量によって、変化する。
レコードと映画は、一人の起業家、トーマス・アルバ・エジソンという事業アイデアを介してインスパイアされた人々によって福音はもたらされた。エジソンの考えたビジネスモデルのかけらは、どこにも残されていないのだ…。
20世紀の100年は、産業革命をさらに「マスメディア」というツールによって、工業社会を進化させ、人類の暮らしを地球の自転による「時間」に縛られることなく、夜間でも昼間のように24時間活動できる自由な時間差社会を生み出した。
そして、誰もがスイッチを入れるだけで、「娯楽」を出かけることなく、リビングルームで得ることができる。
しかし、マスメディアは、些細な暴動を大きく取り上げることによって、人々の、特に男性のDNAに刻まれた「闘争本能」をかきたて、戦争をも拡大化してきた。
そして、兵器はいずれ「原子力」という、パンドラの箱のパワーを活用して、戦争を終焉させた。
核の抑止力によって「宗教」の違いによる争いを、ほんのわずかだけ「一時停止」させることができたかのようにみえた。
そんな20世紀末(1991年8月6日)に、バーナーズ・リーが、NeXTで可動させたWWW(インターネット)は、やっと20歳をむかえたばかりだ。テッド・ネルソンのザナドゥの夢は,WWWが実働することによって初めてその初期的な価値を認めることとなった。
20歳を迎えたばかりのインターネット=WWWという「若者メディア」は、ようやく、メディア間の中抜きや、ドキュメントのルーティン化やカタログショッピングの電子化、無限大のデフレ化だけではなく、ソーシャルメディアによるネットワークによって、人々を経由した「知」を共有することを体験しはじめた。
ソーシャルのファーストインパクトは、知人たちが、今、何をしているのかが、「可視化」できる視聴覚をこえたテレパシーのようなSNS拡張機能や「いいね!」や「ツイート」というポジティブでエンパセティックな共鳴機能だけであった。
しかし、そこから、マスメディア情報をキュレーションできる能力や、インフルエンサーと呼ばれるバズを起こすマーケッターたちが登場してくる。爆発的な発信力を持つ個人はテレビを凌駕する情報発信力を持ち始めた。
レディ・ガガのツイートはメディア側だが、地方のテレビ放送局よりも影響を持っている。
ソーシャルは、テレビにはない、直で結ばれている「香り」を放っているのだ。
それらのアビリティの総和は「知」の拡張をさらに広げ、まったく新しいメディアのパラダイムを生むことだろう。
それは過去のメディアの進化を見れば、一目瞭然だ。
現在のソーシャルとは、まったくちがった新しいメディアの存在だ。
かつて、宗教によって、人々が求めた求心力や、祭りによって、共鳴していた世界感は、21世紀になってようやく、科学に裏付けられた「心のよりどころ」へと変革していこうとしている。
ソーシャルによって構築された「人と人がつながるチカラ」は、コンピュータ間を結んだインターネットよりも、よりパワフルに人類にインパクトを与えてくれることだろう。
デバイスの変化は限りなく、身体と同一化するだろうし、記録媒体は人類の一生に作るデータをすべて網羅し、インデクシングして誰もが何世代も超えて共有できるようになる。いや、人類が滅びても、地球という歴史の瞬間に人類が栄えていた時期を証明する何かを残しているのかもしれない。
そんなソーシャルの次の世界を想像しながら、現在のソーシャルメディアと接することにより、煽られることなく、マイペースでこれらのメディアで人類はどう変化していくべきかを、そろそろ、個人、個人が考えるべきではないだろうか?
「ソーシャルに何かを求めるのではなく、自分がソーシャルに何をできるかを考えようではないか?」
ケネディのマニフェスト調で
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