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http://www.asahi.com/articles/ASG135G4NG13UCLV002.html
浜野保樹さん(はまの・やすき=東京工科大教授、東京大名誉教授・メディア論)が3日、脳梗塞(こうそく)で死去、62歳。通夜、葬儀は未定。
アニメなどコンテンツ産業に詳しく、文化庁メディア芸術祭運営委員や国際漫画賞実行委員などを務めた。著書に「メディアの世紀」「模倣される日本」など。
訃報というのは、こんなにもあっさりと紹介されてしまうものなのか…。
2014年、1月3日(金) 浜野保樹先生、脳梗塞で亡くなられました…。
服部桂さんのfacebookのポストで、もしかしてと…思って検索するとこの訃報にたどりついた。
服部さんのポストでは、浜野先生らとの、「2001年宇宙の旅」にまつわるセッションに参加されたブログが引用されていた。
http://www.ne.jp/asahi/21st/web/forum.htm
そう、かつてならば、過去のイベントなどは、出版されたものとかでない限り記録としては残っていない。1992年の頃の話などは、記憶の中や個別のフロッピーディスクくらいのものだ。
しかし、こうして、一度ネットに放流されることによって過去のイベントの記録にたどり着くことができる。
だから、ブログはSNSよりも重要なのだ。ほんの一手間で、ロゼッターストーンになるのかもしれない。
浜野保樹先生の著書や論文などは、今でも有償であれば、たくさん読めるが、ネット上で確認できるものは意外に少ない。
しかし、この対談などはとても有意義すぎる。ぜひ、一読を…。
http://wedge.ismedia.jp/category/taidan
改めて、Wedgeの企画に感謝したい。
ここからは、私的な想い出話だが、浜野保樹先生には、本当にお世話になった。
先生が、もし、いなかったら、今のボクは存在していないのも同然だと思う。
いや、先生のおかげで人生が変わった一人だと自負している。
最初の一方的なボクと先生との出会いは、とあるシンポジウムで放送教育センターの助教授であった頃だ。
ボクが、MacPressという関西のマッキントッシュの生活情報誌を発刊していた頃だった。
講演で先生から、クリントン政権が、情報スーパーハイウェイ構想(NII(National Information Infrastructure:全米情報基盤))を推進しているというレポートを伺った。ゴア副大統領の父、シニア・ゴアが米国のハイウェイ(ウリーウェイ)を築いたように今度はネットワークによる高速道路、つまり情報のフリーウェイを築こうとしているという講演であった。それを取材し、記事にした。その記事は、すごい反響があった。当時はFAXで、一番気になる記事のアンケートでとっていた。
この講演に感銘を受け、1993年の5月にTED4神戸に集まっている世界の名だたるゲスト陣に、この質問を投げかけると、ほとんどの人がこの「情報スーパーハイウェイ構想」に興味を持っていたことに衝撃を覚えた。これは本物と確信を持ったと共に、浜野先生の先見性の凄さに再度驚く。
アスキーの西社長(当時)、ミッチ・ケイパー(ロータス創業者)、ニコラス・ネグロポンテ(MITメディアラボ当時所長)、ビル・アトキンソン(当時ジェネラルマジック)
そして、インターネットの商業利用はこの1年後だった…。もちろん、楽天もなかった時代だ。当然、グリーもDeNAもホリエモンも無いに等しい時代だ。ソフトバンクは、パッケージソフトの単なる流通会社だった。
その後、APEC大阪で、クリンドン大統領の代りに訪れたゴア副大統領に、大手メディアは沖縄のレイプ事件の質問しかしない中、この情報スーパーハイウェイ構想をしたところ、ゴア氏はようやく出番がきたとばかりに、ボクの質問に真摯に答えてくれた。世の中は、こちらへと流れを変えていた! その夜のニュースでNHKはボクの質問を放映していた(笑)。つまり、この頃からボクは浜野保樹先生の受け売りだけでメシの種になっていた。
浜野先生がいなければ、今のボクは別の職業を歩んでいたと思う。
しかし、浜野先生に、一番影響を受けたのは、カリフォルニアオレンジカウンティ郡のオレンジカウンティケーブルテレビでビデオジャーナリストの話を伺い、日本にビデオジャーナリストはいない…と断言された時だ。
話を聞けば聞くほど、自分のポジションに酷似していた。
「私はビデオジャーナリスト」
http://windofweef.web.fc2.com/library/preinform/5/50/malti_madiamaind04.html
HI-8のシャープの液晶ビューカムを持ち、世界のIT情報(当時はマルチメディア情報)を、勝手にレポートしていたボクは浜野先生にそのビデオレポートをお渡しした。そして、「日本の ビデオジャーナリストです」と浜野先生の前で自ら宣言させていただいた。その日から、ボクの肩書きは、「ビデオジャーナリスト」へと変わった。
何からなにまで一人で演るなんて、YouTuber時代の今ならば当たり前だけど、日本では、神保さんとボクと戦場のジャーナリスト数人くらいしかいなかったはずだ。
浜野先生のご紹介のきっかけで、Avid社のMediaComposerや神戸市マルチメディア構想が進んでいることを知り、さっそく所属している会社の仕事として取り組ませていただいた。また、自由に好き勝手させていただいた浅井工壺社長にも感謝だ。そして、MACLIFEの元編集長の高木利弘さんにも…この頃の皆様に助けていただいた。神戸新聞の光森さんも。頭を下げる方ばかりだ…。
そして、浜野先生の旗振りのおかげで、神戸市はインターネットへと急速にシフトしていった。その役所の立役者がマルチメディア課の振興課長の名物男、木村課長だった。
しかし、今、そのお二人とも、この世にはいなくられた…。
1995年1月17日、神戸は大変な日を迎えてしまった。しかし、そこには松崎太亮さんという広報課の職員がビデオジャーナリストと化して世界へネットで神戸の状況を伝えた。神戸市役所は彼の功績ですべての失策が救われたといっても過言ではないだろう。
浜野先生も彼の偉業を非常に、ご評価された。 MdNのバックナンバーがネットでも公開されることを望む。
浜野先生はその後も、アニメーション神戸などの開催でご尽力を果たしていただいた。
そして神戸のKIMEC構想は、一応の役割を終えた
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/data/keyword/50/k-92.html
その後、浜野先生は、東大大学院に行かれ、東京工科大学に行かれ、東大名誉教授、そして、いつかお会いできる日がくることだろうと思いながら、こんな日を向えてしまった。
感謝すべき諸先輩方々には、こっ恥ずかしくても、早めに、感謝している意思を伝えねばと思う。
浜野先生、お疲れ様でした。又、先生の想いを再度、心に宿し、精進したいと思います。
ありがとうございまいした。
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