【ビジネス】宅配便は吉野家が作ったという話 小倉昌男 ヤマト運輸創業者 クロネコロゴはAllied Van Lines 社からライセンスを受けた

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時価総額 8,196億円

ヤマト運輸 の創立は1919年(大正8年)、資本金10万円、トラック4台からのスタート。小倉康臣が創業する。

1948年(昭和23年)、小倉昌男が父の経営する大和運輸に入社。
国鉄(現JR)の長距離輸送の流通事業や、三越百貨店の配送業務を請け負う。
1971年(昭和46年)、小倉昌男が社長に就任。
国鉄の斜陽化 1973年、オイルショックによる燃料費の高騰、百貨店からの価格引き下げ交渉などで経営が圧迫。

良いトラック会社のあるべき姿

小倉昌男は、良いトラック会社とは?なんだろ
う?と自社を問う。

「どんな荷物でも、大量でも少量でも、いつでも、どこでも、安い運賃で運び、荷主に、荷受人にも喜ばれるサービス」だと定義した。

そして、その目標に至るために、何をなすべきかを考えた。

ある日、日本経済新聞のひとつの記事に目がとまった。吉野家の「牛丼一筋」の新聞記事を見た小倉昌男はハタと気づいた…。

牛丼の吉野家は、牛丼以外のメニューは全てやめてしまって牛丼一本に絞った。と書いてあった。

http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2008/no309.pdf

小倉昌男は、さっそく吉野家へ出向き、牛丼を食べ終えて謎が説けた。

牛丼一本に絞ることにより、良質な肉を大量に仕入れ、味がよく、値段が安い、メニューがシンプルなので、すばやく牛丼を提供できる。オペレーションが確立化されているので、素人のアルバイトでもその日から戦力となり、人件費を抑えながら品質を維持できる。吉野家のように思い切ってメニューを絞り、個人の小荷物しか扱わない会社、むしろ、個人の荷物しか扱えないような会社になったほうがよいのではないか?」と考えた。

 

運送会社も牛丼の吉野家と同じだ!

それが、クロネコヤマトの宅配便の発想へとつながる。 1976年(昭和51年)01月23日「クロネコヤマトの宅急便」が生まれた。誰もがこの事業は失敗すると考えた。
一般家庭から荷物を送ろうとすると郵便小包しかなかったからだ。しかし、小倉昌男はロジックに市場を分析していた。

【戦略】クロネコヤマトの戦略

1970年代、市場規模は、
郵便小包み 1億9000万個
国鉄小荷物  6000万個
合計    2億5000万個

運賃 一個あたり500円 で1250億円市場。

❏郵便小包に勝つためには、500円以上の配送料は取れない。
❏1日に集荷する荷物の数を増やすこと
❏荷物の密度の濃さ(人口密度)×集配車の広さと作業効率=収益力
❏物理的商圏に一台あたりの受け持ちをシミュレーションし、採算にのるベースを仮説として立てる。
❏綿密な市場調査とロジックによって事業成立の可能性を詰める。

…どこまで突き詰めても、それはその時点での仮説にすぎない。

…今度は、その仮説をビジネス化の中で実証し、仮説を進化させ、採算がとれる事業にするための修正をなんどともなく施す。

❏その課程の中で、ドライバーの概念も変わった。

❏単なるドライバーではない、セールスマンのようなドライバーが必要だった。

セールスドライバーという概念のはじまり

ドライバーが接客できなければ荷物が集まらない、すべての客をリピーターにするための窓口は、ドライバーが握っている。荷物の届け先を送り主の顧客に変えるのもドライバーだからだ。
配送コストを自社のドライバーの固定費で考えるか、歩合制度の変動費でいくのか?
稼げれば稼げるほど、働けば働くほど、給与があがる歩合制度の変動費を採用したことによって、セールスドライバーは、喜んで給与を上げた。

酒販店を全国の郵便局にする!

また、郵便局が全国に拠点があり、持ち込むのが当たり前なのに対して、宅急便は、窓口がない。

小倉昌男は考えた。

酒販店だ。

全国に酒販店は、くまなくあり、郵便局より一等地にある。
そこに「宅配便」ののぼりを提供し、宅配便の認知を高めた。この事業提携スキームは画期的だった。
酒販店は「配達」も行なっているので「配達」のついでに集荷も可能だ。さらに地域と密着しているので集荷のハブ拠点としても生きる。
しかも、酒税法における徴税代理人という制度で市場が守られ、イノベーションが起きにくい業界であった。

酒販店にとっても、荷受けするだけで、手数料が見込め、集荷をすると倍額の手数料が入る。オペレーションも、帳票に客に書き込んでもらい、サイズをはかり、集荷のポイントをはかるだけであった。なによりも、瓶ビールをケースでご家庭に宅配する時代だったから、荷受は空っぽのクルマを埋めるのに好都合であった。

1970年当時、実家が酒販店であった、小学生だったボクのアルバイトは、店頭で宅配便をさばくことであった。小学生が店先の片隅で宿題のかたわらに行うだけでも、結構な稼ぎになった記憶がある(笑)。

小倉昌男 – Wikipedia.


初期の頃のヤマト運輸のクロネコヤマトロゴ

1952年の Allied Van Lines 社 のパクリ(笑)
1952 Ad

アメリカの運送会社のマークがモデル

――クロネコヤマトの親子の黒猫の企業ロゴは何かモデルがあるのでしょうか?

「子猫をくわえたお母さん猫のマーク」は、業務提携したアメリカの運送会社『アライド・ヴァン・ラインズ社』の「親子猫のマーク」が由来となっています。

――海外の運送会社のマークがモデルだったのですね。なぜアライド・ヴァン・ラインズ社のマークをモデルにしたのでしょうか?

このマークを見た、当時の社長 小倉康臣が非常に強く共感しまして、同社の許可を得て当社用にデザインをしました。

――なるほど。当時の社長が気に入ったことがきっかけなのですか。アライド・ヴァン・ラインズ社のマークも黒い猫だったのですか?

カラーリングについては、アライド・ヴァン・ラインズ社は白猫でした。

――なぜヤマト運輸では黒猫になったのですか?

はっきりとした理由は定かではないのですが、「当時の広報担当者のお子さんが落書きした黒色の猫の絵をヒントに、デザインをおこしていったところ、非常にしっくりきた」ことで採用されたといわれております。

――いつからこのロゴが使われているのですか?

このロゴマークが誕生したのは1957年です。

http://news.mynavi.jp/articles/2013/08/05/krnk/

【参照】

http://ameblo.jp/yamagatasoba/entry-11069198131.html

 




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