アカデミー賞受賞『の』ロン・ハワード監督作品…この映画がアカデミー賞をとったわけではない…。
新宿のTOHOシネマズの映画の日で1100円で観てきた!2016年10月1日(土)
ロン・ハワード監督のドキュメンタリーの力量が見えなかったが…ビートルズがアメリカで売れ、世界を制覇していく過程を追体験できる仕上がりとなっている。
ビートルズが、ついに日本へ来日!と日本公演を、こちら側から見れば、そう感じる。
しかし、彼らからすると、『リボルバー』のレコーディングを1966年4月6日から6月21日まで行い、それを終えるやいなや、ドイツで、6月24日から3日間公演をおこない、ハンブルグ公演から、6月27日に旅立ち、6月29日明け方の午前3時39分に台風で遅れながら羽田着。日本公演は1966年6月30日から、3日間の昼・夜公演で、計5回行われた。1966年7月3日午前10時43分旅立ち、フィリピン公演へ。イメルダ大統領夫人のディナーをキャンセルしたことから、命からがら脱出する。そりゃ、もうライブがイヤになるでしょう。
すでに、『ラバー・ソウル』で新たな世界を築き、『リボルバー』を取り終えた彼らにはライブで同じことをやるには苦痛でしかなかった…。
日本公演来る前に…なんと…1000回以上のライブを毎日やってきていたのだ。
実に1000回以上のコンサートの合間に、2本の映画を撮影し、6枚のアルバムと12枚のシングル盤(いずれもイギリス国内)を発表、さらにテレビやラジオ出演
http://www.yomiuri.co.jp/special/thebeatles/chap01.html
この映画はそんなビートルズの公演に次ぐ公演の日々の忙しさを体験できる。
ビートルズをリアル追体験させてくれる映画
ビートルズに関する映像はほとんど、観ていると自負している。
このロン・ハワード監督の『ビートルズ Eight days week』は、ビートルズが売れていく過程を当時の時代背景にあわせながら追体験することができる。
確かに、「アンソロジープロジェクト」でも同様のアプローチがあったが、アンソロジーはアウトテイク音源の「公式蔵出し要素」が強かったが、今回の映画は、社会的事象としてのビートルズを映像とインタビューで綴ったドキュメンタリーだ。
ビートルズがブレイクした2つの理由
この映画で気づいたビートルズがブレイクした理由が2つある。
まず、最初に、なんといっても楽曲の良さだったのだろう。
ジョンとポールという、作曲好き双生児が紡ぎ出す楽曲。自分たちで作り、自分たちで演奏して、自分たちで唄うというスタイル。4人で自立している若者。
リズム&ブルース、ロックンロールというアメリカが忘れ去っていたルーツをベースに新しいポップな解釈。トランジスタ・ラジオ時代のメリハリの効いたサウンドと、ハーモニーと大胆なコード展開。初期のヒットにはこれがたくさん見受けられる。キノコ頭(マッシュルームカットの名前はまだない)の全員おそろいの4人の礼儀正しい、おじぎによるステージマナーは全米の音楽シーンだけではなく若者市場を占拠していく。
そして、2つ目の理由。
この映画で気づくのが、米国の戦後の復員後のベビーブーマー(1946年から1964年頃までに生まれた世代)の代表となっていたことだ。ビートルズは楽曲だけでなく、コメディアンさながらに、インタビューに4人が個性的な自分なりの答えを返す。黒人の公民権運動さかんな時期にも、自分たちのしっかりとした考えで答えを出している。はじめて自分たちの意見で物言う若者だったのだ。自分たちで考え、自分たちで作った歌を自分たちで…当時の若者のあるべき姿としてのアイコンがビートルズだったのだ。
ポール・マッカートニーは、このことを「4人のコミットメントの意思の強さ」と語る。さらに、「エルビス・プレスリーは1人で悩むけれども、僕達は4人で悩めたことが幸い」と語る。
そう、誰もこの世界の頂点に立つものの悩みなどはなったものでないとわからないのだ。この映画は、そんな今までになかった音楽が続々と生み出され、世界(アメリカ)がたった4人のイギリスの若者で変わろうとしている瞬間を、蓄積されたビートルズの結果としてのストックではなく、来年はもう消えてなくなるだろうと揶揄されながらのビートルズをフローの状況で体験できるドキュメンタリーだ。
1964年04月ビルボードホット100ジャック
ビートルズの楽曲がTOP5を独占。
今でこそ、当たり前だが…当時としては斬新な楽曲ばかりだった。
❏「キャント・バイ・ミー・ラブ」の頭サビは、斬新だった。ジョージ・マーティンのアイデアだという。
❏「ツイスト・アンド・シャウト」のリメイク。
オリジナルは、アイズレー・ブラザーズ
❏「シー・ラブズ・ユー」の『イェーイェーイェー』のリフレイン
❏「抱きしめたい」の仰々しいイントロ、ユニゾンハーモニーのダブルボーカル、2番のサビの3度ハモリ。
❏「プリーズ・プリーズ・ミー」のどこにもなかった独自のオブリガード、『カモン、カモン』のリフレイン。ジョンとポールの階段入れ替わりハーモニー。
ラジオをつければ、常にビートルサウンドに包まれるという時代背景だ。
3ヶ月に1度のシングル盤、半年に一度のアルバムリリースという、ジョージ・マーティンとブライアン・エプスタインの戦略どおりのヒット。
ビートルズ全米ツアー従軍記者のラリー・ケイン
この映画の中で、重要な部分を示すのが、ブライアン・エプスタインの指名で、混乱極める世界ではなく、4人の若者の従軍記のシークエンスだ。
テレビレポーターである、ラリーケインのビートルズの全米ツアーのラジオ実況放送。
これぞ、まさしくデビューからのツアーにつぐ、ツアーの合間に、ホテルや移動中の合間に作曲するジョンとポールを追いかけている。さらに休みの間にスタジオ、そしてすぐさまツアーに出る4人を客観的にレポートする存在がいた。また、それを仕掛けたブライアン・エプスタインの力量がすごい。
レコードよりもライブのビジネスモデル
この映画で、契約の関係上、レコードの売上は、ほぼレコード会社。しかし、コンサートはビートルズ側の収益になることがよくわかる。
だから、彼らのモチベーションは、良い曲を買いて、ラジオで流してもらい、ライブで儲けるというビジネスモデルだったことに驚く。
その頂点が、シェアスタジアムでの5万人の世界初のスタジアム公演だったのだ。
ちなみに、ビートルズがライブを辞めた本当の理由は、ノーザンソング社が、1965年に株式公開したことにより、株主配当へと変化したからだ。レコード印税ではなく、株主配当へと変化したため、ライブを必要としなくなった。そうすると、もっと真剣にアルバム作りに専念したくなる。
ビートルズの版権でビジネスする方法
ビートルズのデビューは1962年。マネージャーのブライアン・エプスタインと音楽出版社のディック・ジェイムズは、1963年から「ノーザンソング社」を共同設立する。作詞&作曲者であるジョンとポールは「ノーザンソング社」の主要株主となった。議決権は、ディックジェイムズ50% マッカートニー20%、レノン20%、エプスタイン10%。リンゴとジョージは作詞作曲をしていないので関係がなかった。しかし、1964年にはジョージは、ハリソングス社、リンゴはスタートリング・ミュージック社と版権管理会社を独自に立ち上げる。税金対策としての音楽出版事業の株式公開
印税であれば90%以上税金がかかるが、株主配当であれば50%以下ということでノーザンソング社は1965年に株式公開する。そして1967年ブライアン・エプスタイン死去。1968年発売のビートルズの「ホワイトアルバム」からはノーザンソング、ハリソングス、スタートリングと音楽の版権が分散するが、レノン=マッカートニーのノーザンソングの作品がメインであることにはかわりがない。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kandatoshiaki/20141227-00041845/
NME Pollwinners 1965 New Musical Express Poll Winners Awards
https://youtu.be/sBxdgxx4fag?t=1h38m25s
ラストは圧巻の4Kシネマレストア、アビーロードスタジオミキシングのシェイスタジアムライブ
なんとラスト30分間は、4Kシネマレストア、アビーロードスタジオミキシングのシェイスタジアムライブの超おまけつきだ!
これは、膨大な事前情報と共に、ライブで実感できる体験だ。
想い出すがのが、このフーテージを確か中学2年生の時に、大阪の中之島公会堂にて「ビートルズシネクラブ」の映画祭でみたのが最初の体験だった。
おなじようなシチュエーションであり、14歳だった、ボクは40年前の中2のあの頃に思いをはせていた…。
翌日、中学校の掃除の時間にはホウキを左手を持ち、ヘフナーを高々とあげて愛想をふるポールにボクはなりきっていた…。
今の中学生やティーンネイジャーに、熱狂するほどの社会的事象は何があるのだろうか?音楽もエンタメもすべてがもう出尽くした感が一杯である。熱狂にもデフレが及んでいる。
現在のティーンにも、熱狂のビートルズ的存在が必要な気がしてならない。