「自分メディアで生きていく方法」
「世界で一番小さなデジタル放送局」というちょっと型破りなインディペンデントなインターネット放送局「KandaNewsNetwork(4knn.tv)」は1995年の1月に誕生した。
【マルチメディア時代の到来】
「マルチメディア時代」と呼ばれた1990年代。「CD-ROM」というコンピュータメディアに、誰もがオーサリングしたコンテンツを、自由に流通させることができる、とっても小さな市場が誕生していた。その少し前の1980年代後半、「デスクトップパブリッシング(DTP)」というコンピュータを駆使した印刷システムが「アップル」の「Macintosh」というパソコンで稼動していた。
1980年代、ボク(神田敏晶 永遠の27歳)は東京でワイン関係のマーケティング(酒類食品流通研究所)に関わりながら「Macintosh」という不思議なコンピュータの魅力に取り憑かれていた…。神戸で酒販を営む家業を継ぐために、関西に戻ったが、Macintoshへの想いを断ち切れず、1991年神戸で「MacPress」という世界で最初の「地域限定コンピュータフリーペーパー」ビジネスをデザイン会社の一事業部として発足し、同時に「編集長」という肩書きを勝手に作った。
「DTP」という最新技術と「フリーペーパー」というメディアの性格上、取材、写真、原稿執筆、広告営業、広告制作、編集、レイアウト、データ入稿、印刷、配本、入金、支払い、とすべての工程に関わることとなった。当初、デザイナーにはロゴとレイアウトのフォーマットを作ってもらったが、後はフォーマットに流し込んでいくだけの制作プロセスだ。写真もプロにも関わってもらっていたが、とても予算に収まらない。カメラマンに2回来ていただく費用で、一番安い一眼レフのカメラ本体を購入した。モノクロページの取材は自分で撮影することにした。
一人で何人分もの作業を負担することとなるので、作業時間は当然かかるが「自分が納得するまで何度でも吟味できた」ことが非常に楽しかった。コンピュータがあることにより、今まで「自分にはできなかった領域」の仕事にまで足を踏み入れる事になっていた。
1991年に発表されたアップルのビデオフォーマット「QuickTime」は、ビデオカメラの映像をコンピュータに取りこみ、放送業界とコンピュータ業界の融合の歴史的な幕明けとなった。
編集・取材スタッフが5名となり、広告代理店が営業をしてくれることとなり、印刷媒体以外の新しい事がやりたくなってきた頃…。
1993年、紙メディアを補完する情報として、3.5インチの光磁気ディスク(MO)の製品版をフォーマットし、無料のコンテンツを付属し、「無料コンテンツ入りフォーマット済みメデア”diskMacPress”」として書店だけではなく、コンピュータショップのメディア販売コーナーにも並んだ。
・『3.5MO disk MacPress 3D特集』(株)サクレMacPress編集部発行
ヤノ電器 (株) のMOディスク2枚を使用したマルチメディア版MacPress
発売元:(株)リクルート メディアデザインセンター、税抜¥15,800、7月15日発売
という異例の価格設定もブランクメディア(当時のMOは高かった)があることで、すぐに完売となった。パッケージディスクメディアにコンテンツを乗せる「フリーライド(ただ乗り!)・ビジネス」は動き出した。
この時、映画「ジュラシックパーク」の予告編が世界ではじめて、ブランクディスクの売場に並んだ。当時の映画配給会社は、「この意味」をまったく理解していなかった(笑)。映画のPR素材は「テレビ」以外に活用方法がなかったからである。ユニバーサル映画本社も「MO」という光磁気メディアの存在を知らなかったことも幸いした…。当時、マックユーザーはMOディスクを購入すれば、1時間もの独自編集の番組を見ることができたのだ。
このビジネスは、紙媒体につきものの、印刷コストも紙代も送料も不要とし、DTPで作成する素材を「Director(元マクロメディア元アドビ)」でオーサリングし、ひとつのコンテンツをマルチに使う「ワンソースマルチユース」におけるデジタルなビジネスモデルであった。
光磁気ディスクメーカー(ヤノ電器)が、Macフォーマットをする工程で、コンテンツを挿入するので、こちらの作業は皆無で、全国のコンピュータのメディア売り場と書店(リクルートメディアデザインセンター経由)に並んだのであった。disk MacPressは、売れた印税と、メーカーからの協力費が得られ、ハリウッドメジャーからは予告編が無料でもらえるという新たな収益構造をボクたちの会社にもたらした。
この時、ボクは「デジタル化」の恩恵は、単に仕組みやシステムでの「流れ作業」に活用されるのではコストの削減の意味だけでしかなく、「新たなパッケージやネットワークによって、さらに広く、しかも多角的にシナジーが拡大できるビジネスの存在」を「肌」で感じ取ることができた(現在はさらに「コミュニティ」がそこに深く関与している)。
【ビデオジャーナリストとして】
この仕事を続けるうちに、毎月海外に出張できる取材費を捻出することができ、さらに海外ならではの「マルチメディアな珍ビジネス(笑)」を読者に紹介できることとなった。
渡航費も国際線が激安価格となり、大阪-東京に往復するよりも、大阪-ニューヨークに往復した方が安い時代も興した。また、海外でチャット仲間の家を取材を兼ねて遊びに行くことでロケーション費用までも節約することができた。企業に訪問するよりも、その国のネット事情は、平均的な一般家庭で数日、体験するのが一番だと感じた。
日本経済新聞グループのテレビ大阪が、マルチメディア番組に力を入れており、特別番組にはボクの家庭用の「Hi-8液晶ビューカム」で撮影した取材レポートがVTRとして使用されるようになった。海外のニュース映像にも頻繁にボクの画像が見られるようになった。多少画質が悪くとも、そこでしかない撮れない映像であれば価値がある。また、クルーを飛ばすよりも安く入手できたことということもあるだろう。
テレビに放送されるので、本格的なビデオカメラや編集システムの購入を検討していたところ、TV大阪の番組ディレクターから、「神田さんの映像は、ワンカメラで、ノー脚本、ノーリハーサル、ノー編集がいいところ。小さなカメラだからこそのドキュメント映像。だから視聴者もそこにいる臨場感を感じとることができる」と評価をいただいた。その評価をいただいたことにより、ビデオの持つ伝達能力の可能性とインターネットの進化に興味を集約することができたのだと思う。それでなければ、安上がりな単なるニュース映像スクープ屋になっていた。
ビデオカメラによるジャ
ーナリズムは、湾岸戦争(1991年)時、CNNのピーター・アーネット記者らが有名だ。自らトランスポンダーの発信機をひきずりながら、三脚を立て、バグダッドの現地から単独で生放送をおこなった。
敵国から流れてくる自国の映像は、ニュースメディアとしてのCNNの地位を確立した。反対に攻めらている国側の視点で報道もおこなった。「重油にまみれた水鳥」の映像は、戦争の悲惨さを伝える多大なインパクトをもたらした。しかし、その映像は極度にクローズアップされたものであった。映像によって人は時折、「真実」を見失う時がある。そう、テレビや写真のプロフェッショナルな職人たちは、ニュースの「真実を増長」して伝えてしまう傾向を持っている事にボクは気がついた。
1994年01月16日、「ジュラシックパーク」のSFXコーディネイターのマイケル・バッカス氏の取材のためロサンゼルス入りをした朝、「ロサンゼルス地震(震源はノースリッジ)」に遭遇した。早朝のマグニチュード7は、サンタモニカフリーウェイの一部を倒壊した。しかし、周りの被害は、植木鉢が割れたりガラスが割れる程度のもので、街全体が壊滅的なほどの被害を受けたわけではなかった(震源地から離れていたため)。ニュース報道を見た日本のスタッフや家族が心配して次から次に電話をかけてきたため、その日、ボクの携帯電話は鳴りっぱなしだった。帰国後、速報で流されていた「ニュースステーション」の映像と、自分の映像を比較して、その温度差に驚いた。
映像ではフリーウェイの倒壊のクローズアップばかりが報道されていたからだ。このときからボクは、インパクトのある映像よりも、現場の真実の姿を映すべきだと感じた。
1995年1月1日、MacPressを発行していた会社から独立し、個人事業主となった。会社に行かないでいい生活が始まった。朝、起きた場所がいつも仕事場となった。インディペンデンンスデーだった。
【阪神大震災とメディアとインターネット】
そして01月17日、「阪神大震災」。独立したばかりなのに、仕事ができなくなった…。昨年と同日に、しかも同じマグニチュード7に見舞われたのだ。すぐさま映像を撮り始めたが、360度、どこを撮ってもクローズアップしなくても悲惨な状況ばかりだった。生まれ育った我が家も、同様に一瞬にして半壊した。埋もれている近所のおばあちゃん、家中に充満するガスのにおい、暗闇に炎が次々と上がる、消防車の数が圧倒的に足りていない…まさに地獄絵図だった。
ラジオでは兵庫県南部地域で地震があったことと、「新しい情報が入り次第お伝えします」とだけ報じている。テレビ局がやってくると、レポーターが燃えさかる我が家を呆然と見ている人に「現在のお気持ちは?」と無神経にマイクを向ける。メディアは常に外向けの情報をイメージし、レポートする。一番困っているボクたち向けのメディアはどこにも存在しなかった。
一週間後、メディアは震災の被害状況のリポートから、被災者の生活ぶりに質問を変えた。「今、何が一番食べたいですか?」「焼肉、しゃぶしゃぶ、鉄板焼き」とボクは正直に答えた。しかし、放映されるのは「あったかい味噌汁」「おにぎりがうれしい」という謙虚な人のコメントばかり…。来る日も来る日も大量の「おにぎり」が運ばれ、飽きてしまってすでに喉を通らない。ボランティアも、全国からこぞって集まるが、炊き出しに並ぶのは被災者よりもボランティアの方が多い時すらある。どこが「ボランティア元年」なんだ!と思った。
もう、メディアがあてにならないので、原始的だが必要な情報を集めて、壁新聞を作りはじめた。プリンターメーカーのHP(ヒューレット・パッカード)の知人に相談したら、HPのプリンタが数台届いた。アップルにも相談すると、大量のコンピュータを借りることができた。ボランティアに手伝ってもらって壁新聞を作っては、兵庫区と中央区しかカバーできなかったが、開店情報や等身大の情報をまとめて張り出した。同時に、ローカルなメディアの必然性を感じとることができた。
震災直後のビデオデータなどを、GLOCOM(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)に提供し、「MBone」というマルチキャストよる通信実験で配信されたことをきっかけとして、米ABC、仏ル・モンド紙などのメディアに震災地「KOBE」からのレポートを提供することとなった。南米からもいろんなオファーがあったが、ポルトガル語やスペイン語がまったく理解できなかったし、彼らの「リズム」とビジネスをするのは難しかった(彼らのコンテンツや著作に関する意識が低かったこともある)。インターネットのサーバに情報を「put(FTPソフトでputコマンドを押すこと)」するだけで、不特定多数の人が映像や写真を閲覧できるということを実感できた。インターネットが震災時に役立ったといわれたが、それは「被災地の外部の人たちにとって」という限定をつけなければならない。
1995年08月09日「Web1.0」の誕生日とも言われるべき事が起きた。インターネットブラウザ「ネットスケープ・コミュニケーションズ」のIPO(新規株式公開)だ。この日からインターネットのバブルも始まったといえよう。日本でも、「震災とインターネット」と呼ばれるカンファレンスが各自治体で開催され、自治体が積極的にインターネット活用をはじめ、ネットバブルはすぐに日本にも伝染した。
日本の誰かが「ホームページ」と言い出した事によって、「ウェブサイト」はホームページと呼ばれる。日本ではクラッカーの意味でハッカーと言われるのと同じだ。
後に、「ウェブログ」は「ブログ」と呼ばれて、新聞にも「ブログ」という言葉で浸透するようになった。CMS(コンテンツ・マネジメント・システム)なんて呼ばれてもいた。
【個人メディアの時代】
1990年代後半、その頃、ボクはインターネットの最新情報を米国でビデオ取材しては、Jストリームのサーバを使って、「世界で一番小さなデジタル放送局」として個人のビデオ番組配信(ビデオストリーミング)を行った。その後、「アスキー24」などの特約記者として、シリコンバレーと神戸と東京という3ケ所をわたりながら、「関西インターネットプレス」というフリーペーパーと、「まぐまぐ(mag2.com)」というメールマガジン発刊システムを介した「日刊!関西インターネットプレス」「日刊デジタルクリエイターズ」などのメールマガジンの発行を行った。紙媒体の「関西インターネットプレス」は広告が採算割れとなり、休刊(雑誌の休刊は廃刊と同義)となったが、メールマガジンの発行は同志によって、数万人規模で現在も行われている。
【シリコンバレーで起業】
ネットブームはますます加熱していき、ついに「KNN」は1999年「ビジネスカフェ」というスマートバレージャパンが起こした米国法人のインキュベート事業のテナントとして、シリコンバレーのサンノゼに移転した。
ビジネスモデルは「時差」であった。
この頃のシリコンバレーはバブル絶頂期! ゾクゾクとIPO企業が続いていた。
シリコンバレーを代表する新聞「サンノゼマーキュリーニュース」のトップの記事を、朝、確認してから、ノーアポ取材を慣行。アポイントを取っている時間がもったいない。どうせ電話で説明するなら行ってしまったほうが早い。
新聞にトップになることによって、企業の広報担当者はいろんなメディアが取材に来ることを覚悟している。特にアジア人の取材は少ないので、ボクのプリミティブな英語でも時間を取って真剣に答えてくれる。
エキサイトがアットホームに買収された当日、取材陣はCNNとKNNとNHKの3社であった。CNNは周知であり、NihonHosoKyokaiの略称であるNHKは米国では社名の意味が通じない。
エキサイトの担当者は、ボクの「プレスバッジ」の立派さと服装の派手さ、3文字ドメインのドットコム企業ということで、KNNを日本の大企業と勝手に考えてくれたようだ(笑)。また、NHKは日本では大手のメディアではあったが、ITが専門の記者が取材に来ていたわけではなかった。
ボクは世界で一番小さいとはいえ、ITの専門記者である。当然、質問内容は違ってくる。シリコンバレーでは、PR会社が複数の企業広報を兼ねているので、一社のPRエージェンシーに認められたことで、担当している他の会社のプレスカンファレンスに呼ばれたり、パーティーに招かれるようになった。そうして、あとの取材は紹介の紹介で回りやすくなっていった。
日本と西海岸との時差は17時間である。夕方の4時までに原稿やビデオをネットで送れば、ホットな海外ニュースとして朝9時に日本語で見ることができた。大手メディアで流れる翻訳版となるとそこからさらに一日後になるので、さらなるアドバンテージが生まれた。
【ネットバブル】
時折、帰国して日本の企業も回り、日本にも確実にシリコンバレーと酷似したネットビジネス生態系が生まれようとしていると体感した。
インフォーマルな「ビットな飲み会」と証する飲み会は、いつしか「ビットバレー」と巨大化しバブル化していった。そして、2000年04月14日、ネット株の大暴落…。日本のネットバブルもアメリカから数ヶ月遅れで伝播した。
しかし、同年11月「インプレスTV」の開局やADSL回線による「ブロードバンド元年」を迎えることとなった。しかし、一番ショックだったのは、ブロードバンドビジネスを考えるプレイヤー向けのセミナーで、ブロードバンドコンテンツに対して、日本人プレイヤーは、月額2000円以上払っている人がほとんどいないことだった。
どうやら、回線料は支払うけど「コンテンツ」に関しては費用を払いたくないと考えている人たちが、ブロードバンドビジネスという部署で働いていることであった。
2001年に日本に帰国し、役員で参加していた会社の事業部を子会社化しオンザエッヂ(現・ライブドア)に売却。ライブドアの買収の第一弾であったが、色々と問題が生じることとなり役員を辞任。
【ブログの時代がやってきた】
2002年4月1日のアップルの創業日に「4knn.tv」を法人化。屋号は「KandaNewsNewtwork,Inc.」。米国デラウェア州の登記のまま外資系日本支社にしたかったが、税法上の問題で不利ということで、日本で有限会社化した。
その頃、世界でも大きな転換期を迎えたのが「ブログ」である。
2002年に誕生したシックス・アパート(Six Apart, Ltd.)は、それまでのCMS(コンテンツマネージメントシステム)ツールであったブログのイメージを変えるムバブルタイプ(MovableType)をリリースした。「逆リンク」であるトラックバック(TrackBack)機能の搭載である。単なる「日記更新ツール」が、手軽で簡単な「個人情報発信ツール」となり「ブログ」が日本にも浸透しはじめた。しかし、サーバ上にインストールするMovableTypeはまだまだボクのような「ノンプログラマー」な人には敷居が高かった。そこに英語版のASPサービスである「タイプパッド(Typepad)」が登場したのである。
そのトラックバックというサービスに感銘を受け、2003年10月21日に「”TrackBack”な飲み会」を赤坂で主宰した。ブログコミュニティを「リアル」な世界に置き換えたところ、リアルでは見えなかった世界が「トラックバック」によって見ることができた。
「”TrackBack”な飲み会」は、当初からブログで告知をおこない、トラックバックを行うことによって、各自の飲み会をレポートしてもらいたいと考えていた。飲み会で「情報を共有」できるのは自分自身であるが、ブログのトラックバックをたどれば、それぞれの参加者の現場の体験を共有することができる。
「ボクと話しをした人」は、別の人とは違う内容で会話を交わす。「ボクと話しをした人」のブログを見たら、その人の立場でその日のことがリポートされる。また「ボクと話しをした人と話しをした人」のブログには、さらに別の視点から飲み会の様子が綴られている。同じ飲み会でも、30人参加していたら、30人分の視点で書かれている。すなわち、2時間の飲み会でも、参加者が30名だと60時間分もの情報交換がなされていることになる。一つの出来事でも、各人のブログを見てまわることで、そこで起きたことを「神の視点」で見ることができるのだ。
また、ブログの最大の特徴は、誰かのために書いているのではなく、「自分のために書いている点」だ。これはとても重要である。「自分のためにしていることが、どこかで誰かのためになっている」。掲示板やチャットとの違いはそこだ。
ブログは今後、ニュースの世界での「情報ソース」としても非常に有効な情報手段となることだろう。「ひとつの場所で同時多発的に起きている事象」を人間は一人で把握することはできない。メディアであっても通信社であってもそうだ。しかし、「ブログ」があれば、真実に近い情報を「神の視点」で見ることができる。
通信社やメディアが、情報の「裏取り」をしている間に「ブログによる世論の形成」もされてくることだろう。その兆し(kizashi.jp)は、もう見えはじめている。
もしも、ケネディ大統領が暗殺された時に、「ブログ」があれば真実はもっと見えやすかったのかもしれない。これからは「ブログ」が事件の真相を暴く時代だ。
「共通の”テーマ”をシェア(共有)できるのがブログ」だとしたら、「共通の”人”をシェア(共有)できるのがSNS」である。
【SNS】
2004年、「SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)」が雨後のタケノコのように立ち上がった。2003年3月に開始された「フレンドスター(Friendster)」は、出会い系サイトと紹介されたが、実質にはSNSの元祖のサービスであるといえよう。グーグル(Google)社員が開発したオーカット(Orcut)のような招待制のSNSが登場したことにより、ブームとなった。…というよりも、「フレンドスター(Friendster)」にインスパイアされた開発者たちが、世界で同時多発的に、まるで「101匹目の猿」のようにSNSの開発をはじめたことが、コミュニティやメディアが「ある臨界点」に達していることを感じる。
2004年3月17日、KNN Night vol.09「ソーシャル・ネットワーキング ビジネスセミナー」に、Mixiの笠原さん、Greeの田中さん、ネットエイジの西川さん、ゆびとまの小久保さんら、日本のSNSプレイヤーを招いて、セミナーを主宰した。グーグルのOrkut Buyukkoktenさんからも以下のようなメッセージをいただいた。
「orkut.comが英語以外の言語でも成長していて、うれしい限りです。日本の方々にこんなに利用していただけるとは思っても見ませんでした。うれしい驚きです。ご存知のように、現在、日本語は米国についで二番目に大きな地区となっています。orkut.comはまだ完成されたサービスではありません。ユーザーの方々のニーズを聞きながら、必要に応じて順次手を加えていく予定です。orkutを日本の方々がどのように活用されていくのかを拝見するのが楽しみです」
Orkut Buyukkokten ,Google.com
【自分のためは、誰かのために】
東京にいると、自分の知りたいITトレンドがあった場合、自分がそのセミナーや研究会を主宰することによって、実際のサービスプレイヤーをすぐに集めることができる。それが、黎明期であればあるほど、より強固なコミュニティを作ることができるようだ。自分の知りたいことを明確にすることによって、それを知りたいと思う人たちが集まり、さらにそれらに知らせたいと思う人も集まる。
ある意味、セミナーは「集合知の集合地」であるといえるだろう。時間の限り参加者とのコミュニケーションの時間を作っている。
また、すでにこの頃、フリッカー(Frickr.com 現米ヤフー!グループ)が、写真共有型SNSとしてデビューしていた。社長の「スチュワート・バタフィールド(Stewart Butterfield)」に、Frickrのメッセージ機能を使ってカナダに取材に行きたいとオファーすると、来週日本に来るという。
そこでアポを取って、神泉の「開花屋」で一緒に飲み会を開催し、酔っ払った勢いで、イーマーキュリー(現・ミクシィ)に行くと、社長の笠原さんも、開発のバタラさんもいて、スチュワートを紹介した。
もしも、この時にミクシィ側が食いついてくれれば、Flickrと共に世界最大のSNSになれるチャンスが合った。後にFlickrは、Yahoo!Inc.に飼い殺されるはめに…。
「Web2.0」という言葉は、この頃はまだ浸透していなかったが、サクサクといろんな企業同志が、交流を持ってディスカッションしていけるオープンな雰囲気が、サービスにも現われてきたように感じる。しかし、もっとパブリックな場所で、かつ限られたメンバーが交流できる場所が欲しかった。
2004年10月12日、ボクの27回目の誕生日に渋谷に「dotBAR」というBAR形式の事務所をオープンした。
mixiで物件探しと、出資のオーナーを探したら、3ヶ月目にどちらも見つけることができた。SNSの世界をリアルに表現できる自分たちの「場」を「BAR」というインタフェースで開業した。「集合知の集合地」がなかったので、作ってしまったわけだ。しかし、SNSをテーマとしているため、招待制とさせてもらい、知っている人からの紹介がないと入園(SNSのテーマパークだから)できない仕組みとなっている。
2005年08月、アップルコンピュータが、「iTuneMusicStore(iTMS)」」をオープンした。iTMSというプラットフォームが日本のデジタルミュージックを繁栄させると共に、「ポッドキャスト(PodCast)」という新たな市場も日本に開放した。
ポッドキャストやブログ、そしてSNSは従来のメディアと全く違った発生をし、別のベクトルで歩みはじめている。「デジオ宇宙(http://dedio.jp/)」では、たくさんの個性的なネットラジオ局がポッドキャスト以前から存在していた。
その流れや文化は、現在のUSTREAMの個人放送に継承されている。
海外のウェブでは、すでに多量の文字を読ませることが難しいとして、音声ウェブとしてのポッドキャストも多数登場している。アルファベットの自動音声読み上げの精度は、かなり人間に近づいている。古くからあったウェブの音声サービスもこの「臨界点」的な流れの中で、「複雑系」として発展してきた感があったが、RSSで収斂させることにより、より使いやすいサービスとして新たな局面を迎えた。
それはiPodという音楽プレーヤーがパソコンと結びついたからだ。しかし、iPodユーザーのすべてがポッドキャストを楽しめる環境にあるわけではない。まだまだ、使い方は難しい。しかし、日本のラジオ局が積極的にポッドキャストに関しては参入を果たしている事は時代の変化でもある。 それらはradico.jpへと繋がる。
ライブドアによるニッポン放送の買収は、大手メディアに初めて、危機感を抱かせた。残念なのは、技術やマーケティングでなく、時価総額による買収だったことだ。しかし、大手メディアにとっては新興IT企業による買収が、一番ショッキングな出来事だっただろう。
2005年9月より「テレビとネットの近未来カンファレンス」を定期開催している。ネット業界側からテレビ業界との接点をテーマにカンファレンスを行っているが、トラックバックの意見にはいつも感銘を受ける。会場でおこなう「アンケート」では本音が聞けないが、「ブログ」のエントリーには常に本音が書かれるからだ。そこには、当然、雑誌のように広告主からの圧力がないので容赦もない(笑)。自分のメディアで本音が同時多発にブログで立ち上がるのが、ネット系イベントの面白いところだ。
【ライブドア事件を超えて】
ライブドア事件も「ホリエモン」の社長失脚で、一時落ち着いた感があるが、彼が魅せたパフォーマンスは、今までの日本人のビジネス観に「大きな衝撃」を与えた。ホリエモンクラスの暴れ者は海外の起業家では当たり前だろうし、粉飾決算をバレないようにやっている上場企業も氷山の一角に過ぎない。しかし、「出る杭は打たれる」の図式のままで、「ホリエモンはだめだった」のひと言で語るには早すぎるだろう。
彼は彼なりの勝算を持って、これからの裁判に臨むだろう。日本国家もメンツを賭けてホリエモンをたたくだろうが、現在のホリエモンに失って恐いものはまったく何もない。「敗者の強み」だ。
ボクも「セグウェイによる公道走行」によって罰金を科せられ、3日間だけ東京拘置所の独房を体験したことがあるが、退屈きわまりない場所だった。ネットのないあの部屋で、数ヶ月も自分の意思を変えない彼の不屈の強さには敬服する。ホリエモンは圧倒的な知名度を持って、必ず蘇ることだろう。欲しいものが何でも買える者が欲しいのは、「さらに大きな力」である。また、ホリエモンのこれまでのいきさつを見てきた、インターネットが普及してからの「インターネット紀元後」生まれの若者たちは、日本人でありながらもすでに別の人種であると考えたほうがよい。「インターネット紀元前」と「インターネット紀元後」の人種は同じ国民であっても、リテラシーが全く別の民族なのだ。
【マネーゲームの終焉】
これからは「時価総額」の時代ではなく「相乗シナジー」によっての「吸収・合併・提携」が盛んになるだろう。企業の文化やサービスに対する考え方に、相乗効果が出ないと意味がない。マネーゲームとしての投資は、80年代のアメリカと同じで、「売って買われて、また売って」という単なるリサイクルのモデルでしかない。
マネーゲームの不毛なところは、世界的に「今そこにあるカネ」しか回らないところだ。「得をした人」の影には必ず、同じだけ「損をした人」がいる。日本人の家庭には、「タンス預金」と呼ばれる、どこにも流通しておらず、貯金もされていない金が「30兆円」あるという。タンス預金は、今までのサービスでは決して動かなかったのだ。そのカネを動かしたら、もっと魅力的な世の中になるだろう。そのうちの数%は、ほうっておいたら、遺産相続で自動的に徴収されてしまうのだから…。もっと有意義に人生を楽しむためのタンス預金の使い方を提案すべきであろう。
また、かつて企業や機関投資家のような大きなカネがあるところには、「損をしない世の仕組み」が働いていた。「ビジネス1.0」時代における「抵抗」のことである。
インターネットの検索機能を使うことで、誰もが「透明性の高い、公正で平等な情報」を会得することができるようになった。それにより、「抵抗値」は限りなくゼロへと向かっている。インターネットで情報を得られる者にとって、もはや「ワタシだけが知っている世界」は存在しにくくなり、世界中で一瞬にして情報が共有される「オープンな社会」へと向かっている。
しかし、情報リテラシーにおいて世界格差は「情報デバイド」として残り、情報化社会は複雑なレイヤーによって再構築される。
インターネット的に考えられる世代間格差(インターネット紀元前・紀元後格差)、日本語などによる「ローカル言語におけるファイヤーウォール化」などである。
【情報のカンブリア紀】
2006年、「Web2.0」によって、開眼した新たなネットビジネスは、序々にであるが、本来の「ビジネスの正しいあり方」を志向するようになってきた。そこでこの本のテーマとして「ビジネス2.0」的な発想を提案していきたいと思う。インターネット上で起きていることは、もうすでに「サイバーでヴァーチャルな世界」ではなく、「どちらもリアルな世界」として認識しておかなければならない。
数百年後の世界から見ると、今のインターネットは、地球人類にとっての「共有する神経系シナプス」の進化期のようなものに見えることだろう。21世紀の前半、「Web2.0」によって、コンピュータ同士はブラウザをメディア(媒介)としてコミュニケーションを取りはじめた。その「共有する神経系シナプス」を人が意識することによって「ビジネス2.0」も進化する。そこには、過去のレガシー的なビジネス構造との対立もあるが、それらを引きずりながらも新たな価値を創造していくことだろう。
この時代に起きたインターネットを巡る環境の変化は、数千年の時を隔てて宇宙的な視点から生態系の分岐を見るのに似ている。それは、まるでカンブリア紀(5億数千万年前)に、生物が爆発的に多様化した瞬間のように映っているに違いない。
インターネットのある社会や地球環境を、善くするのも悪くするのも、今を生きるボクたちの価値観やビジネス観次第だと思う。個人的、家族的、企業的、民族的、国家的な、短期的な戦略ではなく、地球的な戦略と目標を掲げ、インターネットによって結ばれたシナプスを活用しなくてはならない時だと感じる。
2006年4月18日 dotBARにて
2012年06月04日追記と修正