今年も喪中につき、お年賀のごあいさつ遠慮させていただいております。

Toshiaki Kanda 2009年12月14日 月曜日
0 people like this post

今年も喪中につき、お年賀のごあいさつ遠慮させていただいております。

かつては、おじいさん、おばあさんの喪中だったのが、母の喪中となり、最近は直の知人が、天に召されていく年代になってしまいました。

だんだん周りの人たちが卒業していきます。

「人生の締め切り」は、確実に存在しているにもかかわらず、誰もその締め切りを忘れています。

ボクはすでにもう5回も、その人生の締め切りをすっぽかしてしまいました。

1. JAL123便キャンセル待ち 1985年
2. ロサンゼルス地震(ノースリッジ) 1994年
3. 阪神大震災 1995年
4. 明石花火大会(新年インパク)2000年
5. 911 2001年

どれも、約束の時間どおりに現場にいたら、きっとご招待されていたことばかりです。

これだけ、たくさんの犠牲者の上に、ボクの命は成り立っているにもかかわらず、ついついその貴重な「人生の締め切り」を忘れてしまいます。

人は生まれた瞬間から、死に向かってのスタートを切っています。どんな人にも、平等に死期は近づいてきます。富める者を羨んだり、妬んでも仕方がありません。所詮、人間の寿命は、最高の状態でメンテナンスをしてもせいぜい100年程度。

節操のない生活している者、完治不能の病、酒、タハコなどで、さらに縮まります。一方、過度のストレスや社会との不適合によって自らその時間を圧縮しターミネイトする人が日本では年間3万人います。

そして、今年は、この社会を共にしてきた友、そして先輩が今年は3名、ボクの社会から卒業されました。毎年、喪中になってしまうのです。家族同様の知人への礼儀として身を慎みます。

最近はネット上に彼らの言動が残るので、ググればいつでも彼らの言霊を見かけることができます。おそらく、ボクの文字量は相当のようです。孫やひ孫や子孫が見たら、きっと変な先祖だと思うことでしょう。おそらく、これからは天皇家なみに、文書がネット上に存在し、100年後の子孫が自分のルーツを探っている時に、ボクの文章を読んでシンパシーを感じているかもしれません。

今年は、大好きだったマイケル・ジャクソンや忌野清志郎も、あちらに行きました。天国がとてもにぎやかになっているかも。だんだん、彼らのいる社会が、もしかしたら、今の社会よりもいい社会のような気さえしてきます。

そう考えると人生の締め切り日をご褒美として、ポジティブに楽しみとして、待つことにしました。早く、そんな日がこないかなぁと思いながらワクワク待つことにします。すると、この現世の社会でやり残していることがたくさんあることに気づきました。

寝て、起きて、働いて、遊んで、寝て、起きて、働いて、遊んで、寝て起きて、働いて、遊んで、悩んで、笑って、怒って、悲しんで、喜んで、交って…。

なんだか、もっといろんな事ができるはずなのに、もっと大胆にドラスティックにこの社会にいる間に満喫しないとという気持ちになってきました。

そうでないと、とってももったいない。また、あちら側の社会にいった時に後悔するかもしれません。
なんだか、自分の夢とか欲とか人生の目標もちっぽけな事に気づきました。

今、この社会でしか、できない事は何だろう?この社会で、どう自分が過ごしていくかよりは、この社会で自分は何をなすべきかをもっと考えることの方が重要。もしかすると、何かを達成するミッションのために、みんなが今、この時代に生まれてきたのかもしれません。

きっと、こちら側の社会を卒業し、あちらの側の社会にあらためて生まれた時に、先輩たちに、きっと聞かれると思います。

「さぁさぁ、新入りがやってきましたよ。みなさん、彼の話を聞きましょう。あなたは、むこうの社会で何を一体何をやってきたの?」
普通に、ごく平凡な話をしたら、先輩たちはつまらなさそうにその場を立ち去っていきました。

暇をもてあましている、あちらの社会では、こちらの社会の滑稽さが唯一の楽しみのようです。

こちらの社会よりも、一生お世話になるあちら側の社会で何ができるのか?

その答えは、こちらの社会のおもしろいストーリーを、いくつもお土産に携えていくことではないかと思います。
彼らを、目一杯、楽しませることができるような人生を、彼らのためにも歩まなければなりません。

こちらの社会の評価よりも、あちらの社会で評価される生き方。

彼らに自慢できるような、こちらでの生き方を考えてみたいと思います。

まずは、「ありがとう」という言葉を、昨日よりもたくさん人に言うことから…。



Category: コラム
  • 0
  • 119
Toshiaki Kanda