鎖につながれた聖書 選挙管理委員会の選挙ポスター設置

いつまでたっても選挙のための「聖書」は、鎖につながれたままだ。

誰に投票するかの立候補者を見るのに、わざわざこの掲示板を見て、候補者のウェブサイトをみないことには、政策がわからない。そして、投票日には、わざわざ指定された「カトリック教会」に拝観しにいかなければ、投票できない。

最初から、総務省が用意した、ウェブに必要な事項とPRを同じフォーマットで書かせれればよいのだ。
それでこそ、「鎖を解き放った聖書」となる。

スマートフォンで、公示日に一斉に、候補者を選択できる。各候補者の政策を一覧で比較できる。

まさに国民主権でもなく、憲法の「知る権利」さえ侵害されているのが今の選挙システムだ。

候補者のことを周知するための義務を、選挙管理委員会と総務省は怠っていると思う。

ネット選挙を考える時にいつもこのプロテスタントの発生期のことを考える。

いまだに、選挙前になると、選挙管理委員会が800億円の予算から、選挙ポスターを貼るための掲示板を設置する。

最初からポスターを貼ってから掲示したらどうだ?

むしろ、設置できる場所に太陽光での電子ボードとして、防犯用とアドボード、有事の震災インフォメーションボードなどにすべきだろう。すると、選挙の度に建てずにすみ、普段は広告費がはいり、音声ガイドとか監視カメラで避難連絡とかにもなる。多言語表示も可能だ。

ルターは、印刷術で誰もが聖書を持ち歩けるようになったことによって、カトリック教会で、鎖につながれた重厚な聖書から、宗教を解き放った。

今、政治も、選挙とカネによるどぶ板選挙をまだ続けている。
集票活動のほうが、政治活動よりも真剣になる。
集票できないと、政治ができないからだ。

グーテンベルグ以来の、スマートフォンという聖書を手にした市民は、文字が読み書きできるようになったのと同じく、「国民主権」を唱えることが可能なのだ。

「我々は単なる、物言わぬ一票ではない。あなたたちを任命する主権者の一人だ。
あなたたちは、それなりの個人の尊厳を持って、選択に値する情報を提供すべく努力をなすべきだろう」

もっと、任命するに値する価値を見せてほしい。党派や閥などどうでもいい。誰のために働く覚悟が本当にあるのかを見せて欲しい。