ネアンデルタール人の表現欲求-人類は表現する生き物である-

フランス南西部のラスコー洞窟の壁画 ©Prof saxx

「ネアンデルタール人からフェニキア人まで、人類は常に、表現したい生き物である」ポール神田

 

■ネアンデルタール人の表現欲求

フランス南西部のラスコー洞窟の壁画は、1万5,000年前(後期旧石器時代)にネアンデルタール人(4万年前に誕生)によって描かれた。いや単に描いたというよりも壁の凹凸を利用しながら、3Dに見えるように巧みに塗料が塗られているのだ。赤鉄鉱(ベンガラ)の良好な耐候性や耐久性を利用し、牛などの狩りの様子を克明に描いている。さらに、雨水に耐えるよう洞窟(どうくつ)内の壁画で、焚き木をしながらも鑑賞できるように製作されている。

言葉も文字も持たないネアンデルタール人は、何のためにこんなに見事な壁画を残したのだろうか?画商もいなければ、オークション制度もない。当然、お金という貨幣価値もなかった時代だ。絵を描いて一体何の得になったのだろうか?それは、ただ、「描きたかったから」という単純な理由だったのかもしれない。ビジネスモデルを常に考えて仕事をしている現代人とは志そのものが違っていたのだろう。

さらにネアンデルタール人は、発声器官が発達しておらず、音声や言葉ではコミュケーションができなかった。しかし、洞窟で共同生活を営むためには、狩猟を主とした営みや、男女間での役割分担もあったはずだ。そこで、当然、発達したのが身ぶり手ぶりのボディ・ランゲージだ。

むしろ、最低限のコミュニケーションとしての身ぶりだけでなく、壁画を使って、狩りの戦略をチームでとしてミーティングしていたのではないだろうか?とさえ思える。

悠久の歴史から、言葉だけでなく、身ぶり手ぶり、図解、いろんなものを活用してわれわれはコミュニケーションをとってきた。

ネアンデルタール人でさえも、頭のイメージを壁画に表現し、それを仲間と共有していた。人類は、生まれながらの「表現欲求」を持った生き物であると考えることもできよう。

現代でも、外国語のような、オーラルなコミュニケーションが取りにくい場面では、身ぶり手ぶりでネアンデルタール人になったつもりで表現しなければならないのだ。欧米人はオーラルでコミュニケーションできていても、さらにオーバーなアクションで表現する。ボクたち日本人はもっと大げさなくらい身ぶり手ぶりをして、初めて相手に思いが伝わるのである。

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