テニスのラファエル・ナダルの右手に光るトゥール・ビヨン
ネイマール・JRの右手
5,000万円の時計が、彼の激しいゲームの中でも正確な時を刻んでいる。ケース本体は約13g(ストラップ装着時約20g)。なんと1gあたり250万円。ダイヤよりも金よりも高い!
リシャール・ミル「RM027」
http://www.richardmille.jp/model/detail/index/id/127
ブレゲが懐中時計として1801年に発明したトゥール・ビヨン
携帯電話、パソコン、
これらのハードウェアで工芸品というものはまず聞いたことがない。
ブランド携帯は登場するが、工芸品のスマートフォンはまだ存在しない。
ハイテクは、すべてテクノロジーの進化の途中であり、まだまだ変化しようとしているから工芸品と呼ぶべきものは登場しないらしい。しかし、携帯電話に、後は何を望むのだろうか?写真やビデオは携帯に必ず必要だろうか?パソコンにあと、どんな機能が必要だろうか?PDAで映画やテレビを移動しながら見たいだろうか?
かつて、1970年代、スイスの時計産業が日本の水晶発信によるクオーツ式に駆逐され、すでにデジタル時計に凌駕されようとした。スイスの9万人の雇用は、3万人にまで縮小されるようになった。吸収合併も進み、スイスの時計産業は、崩壊へと誰もが予測したが、時代はそのようには進まなかった。21世紀、今や、空前の機械式時計ブームである。一本、100万円もするロレックス・デイトナやフランクミューラーがバンバカ売れる時代でもある。
時計をもはや「正確な時を刻むツール」としては、誰も考えてはいない。正確な時が知りたいなら、数万円の電波時計で十分であり、自動巻きでなくても太陽電池でも十分である。むしろ、人々が期待するのは、時計によって、自己の演出性やその希少性や、時計師たちの苦労の時間を所有する喜びなのかもしれない。
もはや、正確な時を生死と引き換えにする専門家たち。パイロットやダイバー、レーサーなどのプロは、自動巻きの機械式時計などは、使っていない。彼らが機械式を使っていたのは100年も前の話である。ではなぜ、現在、ボクたちはかつての専門家に対応した時代遅れの時計を超高価な金額で求めるのだろうか?
それは、古くは教会の大時計や、大きな壁掛け式の時計を、モバイル駆動にし、露出した腕にまきつけ、水や雨や埃にめげず、最大の敵である人間の不自然で不安定な腕の動きにじゃまされながら、それを動力源として、時を刻み続ける約30mmの小さな宇宙に魅せられたからではないだろうか?それはモバイルでもあり、ウェアラブルな、人間と機械との重要なインタフェースメタファーでもある。
16世紀のフランスで宗教改革が起こり、弾圧された技術者が続々とスイスに渡り、そこで時計づくりをはじめたのがスイス時計産業のはじまりであった。
18世紀のジュネーブで活躍したマスター時計職人「キャビノチェ」と呼び、その語源は、屋根裏部屋(キャビネット)をアトリエとして使っていたことといわれる。
20世紀の初頭の大冒険時代、飛行船のパイロット、サントス・デュモンが懐中時計でなく、カルティエに腕時計を発注したのが、腕時計のはじまりといわれる。当時の開拓者は海や空や陸にスピードを求めるスピリッツがすべて腕時計によって表現されているといっても過言ではない。
また、その機械式時計の中にも、最高級のムーブメント(駆動部品)といわれる「トゥールビヨン」という機構がある。一つ制作するのに、「キャビノチェ」と呼ばれる選ばれた時計職人が一日、数十時間もかけて何日も制作していくので人件費から高価になってしまうのである。トゥールビヨンが搭載されるだけで、時計の価値も数千万円レベルにあがってしまうのである。トゥールビヨン時計であれば、ベンツやフェラーリと勝負できるのである。
もしも、ノートブックコンピュータに例えると、「バベッジの機械式コンピュータで稼動する」コンピュータは、数百万円の価値があるのかもしれない。しかし、実用で使えないのであればコンピュータは意味がない。
機械式時計、しかもトゥールビヨン、さらに独立時計師たちの手によるとそれらは軽く5000万円にもいたるというから驚きだ。世界でも数個しかない、時計には時を刻むだけでなく、自分の人生や成功を刻むためのアナロジーなのかもしれない。しかし、時間の精度は3,000円のデジタル時計と変わらないのは皮肉な話だ。
日曜日に「世界ウルルン」でアラン・シルベスタインの工房が紹介されていた。しかし、あまりにもシンプルな工房が見えてしまい、アラン・シルベスタインも気軽にテレビに出るような人だったので、かなり残念な気がした。広報担当者がいれば、このような番組に出ることのデメリットにも気がついたはずだろうに…。
NHKの番組でもジュネーブの工房をいくつも見せてくれるが、独立時計師の「キャビノチェ」風のアトリエに比較して、近代的な「パテックフィリップ」や「フランクミューラー」の工房(工場?)を見ると、いつかは独立時計師たちの手による時計に、腕を通してみたいと感じた。