1,955 Views

永遠のバックパッカー宣言!

永遠のバックパッカー宣言!

33年前、初めての海外一人旅のボク

「旅」は、自分を何倍にも成長させてくれる人生の教科書でもあり、筋書きのないドラマだろう。また、自分をリセットしてくれ、新たな価値観や経験を与えてくれる絶好の機会だ。

特に、10代20代の海外旅行は、どんなに無理をしてでもいくべきだとボクは思う。

先進国と発展途上国、季節が逆の国。聞いたことがない言葉をあやつる国。身振り手振り、なりふり構わず、全身の身体能力を駆使してコミュニケーションすることは、おそらく、使われていない脳をフルに動員する限られた機会だと思う。そして、海外では、言葉だけのギャップではなく、文化や習慣を超えたコミュニケーションスキルが要求される。

それを、日本での長年の社会経験や常識や要領で、カバーできてしまう年代に達する前に、できる限り、早く旅立ってほしいものだ。

さらに、それは、ツアーやパックなどの団体旅行ではなく、個人で旅行していただきたい。ツアーやパックでは、外国には行っているけれども、ツアーというひとつの「パッケージの中から見てきた外国」であって、本当の意味での「外の国」ではないからだ。

基本的に、

【1】最初はパック旅行、中学生

【2】そして友達との個人手配旅行(FIT)高校生、

【3】そして最後は一人旅による個人手配旅行(FIT)大学生

の3つのコースをおすすめしたい。

日本の国も教育ローンだけでなく、バックパッカーローンを無利子で準備すべきだろう。今の大学よりもバックパッカーの地球大学で経験できることのほうが多いのかもしれない。

旅は、すればするほど、国は渡れば渡るほど、いろんな経験を自分に与えてくれる。そして、言葉の通じない国であっても、自分でいろんな問題を解決するチカラを要求してくれる。そして、その一度培ったチカラは人生の中で何度も何度も活かせる場面に遭遇する。

日本だけしか知らない人よりも、世界を知っている人のほうが、いろんな意味で広い「のりしろ」を持っている。その「のりしろ」は、これからの時代、「個人手配旅行(FIT)」という旅行の単なる種類ではなく、「旅」というスキルを極めて行くためのバネとなることだろう。

ボクが最初に海外に行ったのは1982年。1ドル240円のロナルド・レーガン政権の頃だった。

カリフォルニアのホームステイプログラムの1つである交換留学生プログラムで、ボランティアのホストファミリーのおウチに3ヶ月間、居候させてもらうはずが、結果として世界をバックパッカーする旅となった。

ロサンゼルスから、クルマで30分、Diamond Barという郊外の住宅地。Carl’s Jrというハンバーガーショップ。巨大なスーパーマーケット、早朝ジョギング、夜でも開放されているサッカーグラウンド。初めてみた食器洗い機、乾燥機、ディスポーザー、ボクはアメリカという国にどんどん魅せられていった…。

ホームステイ先のdadとmamは共に、ポーランド移民の子孫。アメリカで生まれながらも、ポーランドの伝統を守りながらのアメリカンライフを満喫。ボクは、英語もおぼつかないのに、よくばって、ポリッシュ(ポーランド語)も覚えようとした。アジアの若者がポリッシュをしゃべることを彼らは快く歓迎してくれた。

今まで、学んだ英語の知識を総動員して、日常会話。文型を意識していてもまったく無駄と気づいて、主語と動詞だけでもなんとかなることを学んでからは、デタラメ英語は、絶好調となった。

自分が「外国人」であることを自覚し、アメリカ人(ポーランド人)も腹が減り、酒を飲むと酔っ払って歌を歌い、呑んだくれて眠り、翌朝は仕事に…。しかし、土日はめいっぱい遊ぶ遊ぶ!…。

戦後の日本で育ったウチの両親は「もったいないもったいない」「欲しがりません勝つまでは」の戦中教育世代。まったく、人生の使い方が違う…。

週末になると、親は平気で子供をほったらかして知人宅へポーカーをしに出かけていく…。しかも、普通のdadとmamaがタキシードにイブニングドレスで大変身だ!驚愕した!普通の市民がそんな格好を持っている!
それでも欧米人はタキシードや背中のあいたドレスになると映画スターにみえてくるから不思議だ(笑)。
それで悪い子供たちは、週末になると、彼女を呼んだり、彼氏の家に泊りに行き、オトナになっていく。それを親もわかっている。戦争で負けていない国の文化に触れた気がした。おじいさん、おばあさんの時代からそうだからだ。アメリカでは、誰も戦争の被害のことなど、歴史でしか知らないからだ。

そし、親子でありながらも、子供たちの個人人格をとても尊重している。これはボクにとって画期的な家族観となった。

そして、言葉の壁は、コミュニケーションの心がけ次第でなんとでもなるということを強く学んだ。

バックパッカー時代。

イスラエルでは、高校を出て兵役を終えた人は、ほとんど世界へと旅だつという。海外でいろいろ経験をしてから、大学へ行くという。そしてまた、それぞれのことをするから社会にでてくるのは、20代後半だ。だから新卒はかなり落ち着いているのだ。

日本の一斉の就活なんて、意味がないことがわかる。なんで、就職する時まで、宗教の合同結婚式みたいなことになるんだ?

ホームステイでしりあった知人たちと一緒にニューヨークへと渡った。1984年のことだ。

彼らから、炉端での行商のやり方を学んだ。凄いのが彼らは旅行はカネを使う場ではなく、稼ぐ場として考えていたことだ。これは衝撃的だ。持っていったカネより、稼いで国へ帰ってくるのだ。そこで、ビジネスの本質を学ぶ。外国なので、現地のルールの線引をまず徹底的に調べ、現地の困っていることやないものを探して、何かを調達して、新しいものを生みだす。

企業行動の必要なことは、すべて行商の中にある。

タイムズスクエアで、白いTシャツに漢字で外国人の名前を書いて、利益を得ることを覚えた。例えば、アランという名前は、「亜蘭」という文字で筆でペイントして、25ドルで売るわけだ。

原価5ドルのTシャツが、20ドルの利益を生むのだ。しかし、ボクの取り分は5ドル、友達がなぜか5ドル、そしてショバ代が10ドル。それでも、1ドル240円時代の5ドルは非常に価値がある。違法な行商もショバ代を払っているので、当時のニューヨークの警察ともなんだかゆるーく取り締まるだけ(笑)。ジュリアーニ市長に変わってからは、そんなのどかさは微塵にもなくなってしまったが…。

安く仕入れて、付加価値をつけて高く売る。商売の鉄則だ。海外旅行でお金を使うだけではなく、日銭を稼げるという可能性を目の当たりにした。

早速、儲けたお金で、今度は、大西洋を渡り、英国から入り、バックパックで旅から旅へ…。アメリカの東海岸からは、ヨーロッパはとても近いのだ。日本の考え方では、欧州はとてつもなく遠い場所だが(笑)。

ユダヤ人のネットワークは、紹介の紹介をたどるだけで、なんとかなるから非常に役立った。「シャローム!」の挨拶ひとつでバックパッカーをあたたかく迎えてくれた。すごい、信頼社会だ。また、フリーメイソンの握手を覚えたボクはここぞという時にそれを使ってみたら、きっちりと反応してくれる。

「漢字」という職能と「剣道」をやっていたボクはなぜかロンドンで、空手の真似もさせられた(笑)。しかも、勝手にブラックベルトにされている。東洋人は、ブルース・リーやジャッキー・チェンだと思われている。ボクは日本人なのに…。外国人の日本やアジアの認識はそんなものだ。

ロンドン、パリ、ハンブルグ、アムステルダム、ユーレイルパスやヒッチハイクでヨーロッパ中をまわる。そして、さらにさらに、流れ着いたのは、彼らの故郷のイスラエルのジュリサレムの郊外へ…。

「キブツ」という農家では、モサドの訓練体験。コーシャ料理という血抜きの食事も宗教上とはいえ、乳製品と一緒にはダメとかいろいろと面倒くさいことも覚えた。頭にキパという帽子をかぶらせられ、神と人間の間は、5mmしかしかいないことも学んだ。そろそろ彼らの「タルムード」という処世術にも感銘を受け、ユダヤ教にはいってもいいかなと思いかけたが、あそこを切って血をながせばいいとラビに言われて、断った(笑)。オトナになってあそこを切るなんて絶対に無理〜!基本的にユダヤ教では男の子は割礼を儀式としてする。

その後は、全く別世界のインドへ! 

当時のインドはまるで異次元のような世界で、サイケデリックで非日常な異次元な毎日を経験した。HIVもなかった頃のフリーな世界観だ。時代遅れのヒッピーがゴアに集まりLSDにガンジャ入りのパンなど、毎日、生卵を飲んで精をつける日々に明け暮れる(笑)。自分たちで野菜や牧場で乳牛や鶏を飼い、お金のかからないユートピアを築こうとしていた。お金がなくても、自分で地球を使って生きていくことができる人間の営みが実現できるコミューンもみた。結婚の概念も大きく変わる。ここでは、みんな大家族の一員となった。

ボクはヘロヘロで帰国したあと、日本で社会人となり、大きなギャップと苦闘する日々を迎えた。日本人的なビジネスのやり方がどうも面倒くさくて仕方がない。

再び、ビジネスバックパッカー時代へ

そして、30代を超えて独立してからは、ジャーナリストという仕事をしながら、ますます旅を続ける生活となった。

MacPress というアップルのMacintoshの取材で味をしめたボクは、その後も、20数年に渡り、デタラメ英語コミュニケーション術で、世界を個人手配旅行(FIT)で渡り歩くこととなる。そう、この時が第二のバックパッカー、そこで「永遠のバックパッカー宣言!」でもあった。

1991年の30歳になってからだ。すでに子供も2人いる父親になっているにもかかわらず…。仕事にかこつけて、海外出張時には必ず、前後に最低2週間は調査旅行の名目をつけた。

当時は、ネットもメールアドレスも何もない。一期一会の繰り返しである。しかし、縁がある奴とは必ず旅先で出会うから不思議なものだ。ビジネスツアーに行ったつもりが、個人手配旅行で、ボクは、いつのまにかバックパッカーとなってしまっていた。

ホテルに1人で宿泊しても、何の情報もえられない。しかし、ドミトリーに行けばいろんな価値観のバックパッカーもその地の一番コストパフォーマンスのある情報を教えてくれるのだ。旅のプロたちが、身銭をきって得た情報が無料で入手できるのだ。ホテルに1人で泊まって、テレビを見てビールを飲んでいるビジネスマンがアホに見えてくる。

MACWORLDで知り合った、ロスに滞在していた、イスラエル人のアランとは、何かとウマがあい、家に寝泊まりするようになった。ボクはイスラエル人とは学生時代からよく接している。サイテックス社というイスラエルの会社のサポート担当だが、仕事は自宅にひいた回線で家事をしながら対応している。今で言う、テレワークなんだけど、自宅にいながらネットワーク(インターネットでなく専用回線)で仕事をしている未来を体験できた。

1995年、KandaNewsNetowork,Inc.として独立する。

「オープンジョー」というチケットを使えば、出発地点と帰国地点を変えることができた。関西空港から飛び立ち、サンフランシスコを周遊し、帰りを成田空港を指定。神戸から東京に行く往復するだけで3万円。

しかし、飛行機で、アメリカを経由しても格安の安い時期ならば、3万5000円で神戸からサンフランシスコを経由して東京出張が可能だった。

国内で移動するよりも、海外に行ったほうが安くなるなんて、一体どんな仕組みになっているのだろうか?

しかも、ホテルは初日だけで、翌日からサンフランシスコ大学のドミトリーでルームシェアを申込む。3〜4件連絡をすると、一週間分のホテル代金で一ヶ月くらいはルームシェアで生活ができたのだった。

90年代のマルチメディアブーム、2000年代のネットバブル崩壊まで、「個人手配旅行(FIT)」があったからこそ、自由に自分の旅を計画することができた。

そして、ルームシェアをした仲間との間にネットワークが生まれ、その誰かとまた、つながっていく。旅先での出会いは今や、ネットを通じて、いつでもコンタクトが取れる。

きっと、ボクがリタイアした頃には、世界中に、一週間、無料で泊めてくれる友達が、52人(52週間=1年)存在し、それだけで、ずっと旅行しながら生きていくことができる。

ボクが心がけることは、健康で丈夫な体と、旅先で1週間飽きさせない、世界の旅での経験談を伝えることだ。

考えてみれば、生まれてから死ぬまで、それは、自分の卵子と精子が出会った時から始まる「旅」なのである。

同じ旅ならば、不安に感じる旅ではなく、目一杯楽しめる旅にしなくては、人生の旅がもったいない! そう思わない?

生まれてくる時も1人、死ぬ時も1人。出会って人たちとたくさん楽しめる人生を送りましょう!

地球に感謝! 太陽に感謝! 人生に感謝!

※2010年に、facebookで29年ぶりにダイアモンドバーの家族と再会できた。今度、フロリダに行った時にたずねてみたいと思う。
世界は動いたら動いただけ、近くなる。

2012年には、このデタラメ英語コミュニケーションで英語コラムの連載を開始

「ポール神田の世界は英語でつながっている」

http://news.mynavi.jp/column/paulkanda/

この記事に関連する記事