『日清カップヌードル』のデビューは衝撃的だった。
1971年 昭和46年
どこよりも早く、神戸の小学生にも、湊川中学のとなりのナショナルの電気屋さんの店の前に設置された自動販売機に度肝を抜かれた…。
そう、当時はスーパーではなく、カップヌードルは自販機ルートで販売されていた。
この物体はなんなのか? カップはわかるがヌードルだ? 小学校6年でも『ヌード』?を安易に連想できた…。
しかも100円もするのだ…。今で考えると500円くらいの感覚だ。
袋麺はたしか25円くらいの時代だ。
フィルムを開けてから、お湯を注ぐところにおくだけで、銀色の注ぎ口が刺さり、そこから熱湯が注入される。
3分間待ってから、自販機に挿入されたプラスティクのフォークで食べる…『カップヌードル』だ。
むむむ…。日清チキンラーメンの味に、卵や肉やらのちょっと小ぶりなものがはいっている…。とてもハマったが、賛否両論。
食べ物として認める…認めないの議論が小学校でも起こった…。
しかし、本当のブームは、ひとつの事件で起こった…。
1972年(昭和47年)2月の真冬の連合赤軍による『あさま山荘事件』をきっかけにして売れることとなる。
冬の零下を超える寒さでの自衛隊への弁当は、寒さで凍ってしまう…。そこで支給されたのが、熱湯を注いだ『カップヌードル』だ。小学校でさえも、授業中にも『あさま山荘』の事件は学校教育用のテレビがつけられていた…。
https://www.nissin.com/jp/about/history/topics/817
お昼時の自衛隊員のカップヌードルをフォークで立ち食いする姿、しかも湯気がモノクロ画面を通じて、シズル感が最高につたわってくる…。
現在の観光船のKAZU1引き上げのライブ映像よりも、人質の命や連合赤軍との対峙はクレーン車で破壊という衝撃的なラストを迎える…。
https://www.youtube.com/watch?v=6mv_QPshkgs
https://www.youtube.com/watch?v=SMp4lCTrhmA
マクドナルドのハンバーガーレストランも神戸の大丸の1Fに登場した時も、なんでも一番が大好きな父に釣れられ、食べにいった。
父はいつも最安値と最高値を比較するのが大好きな人で、ハンバーガーとビックマックをたべさせてくれた。ハンバーガーは、おやつとして、まぁまぁだったが、ビッグマックにはこれもまたどぎもを抜かれた…。誕生日は、ビッグマックを死ぬほど食べたいとお願いし、食べたが、3つが限界だった。
1970年代、オイルショックなどいろいろあったが、新しい文化が次々と生まれていた。
話をカップヌードルに戻すと…。世界的なヒットにはいろいろとおもしろいインスピレーションのストーリーがあった。
How Cup Noodles became one of the biggest transpacific business success stories of all time より
□カップヌードルは、50年前の1971年9月18日に日本で初めて発売され、翻訳ミスで「s」が抜かれた英語名で、白、赤、金のカップから直接フォークで食べる携帯用のインスタントラーメンである。
□ひらめき
日本ではよく知られた話です。カップヌードルは、インスタントラーメンを発明した安藤百福が、1948年に日清食品を創業して生まれたものである。
□安藤は日本占領下の台湾で生まれ、1933年に大阪に移り住んだ。戦時中の日本で、闇市の屋台に安いラーメンを買い求める人々が列をなしているのを見て、安藤はラーメンを食べたいと思った。その麺は、アメリカからパンの材料として提供された小麦粉で作られていた。
安藤は、家庭で簡単に食べられる麺を作りたいと思い、自宅の裏庭に実験小屋を作った。
何度か失敗を繰り返した後、1958年にひらめいた。妻の正子が天ぷらを揚げているのを見て、油で水分を飛ばしていることに気づいたのだ。
そして、油で揚げた麺や乾麺をゆでると、再び水分が飛ぶことに気づいた。調味料やトッピングを工夫すれば、いろいろな味が楽しめる。安藤が最初の味に選んだのは、チキンスープが濃厚で栄養価が高く、アメリカらしいと思ったからだ。
チキンラーメンは、生麺の6倍もするため、投資家がなかなか集まらない。そこで、安藤は試食会などを通じて、一般の人たちに直接商品を届けることにした。これが評判となり、戦後日本の代表的な食品となった。
しかし、1960年代半ばになると、「チキンラーメン」や1964年に発売されたインスタントスパゲティ「スパゲティ」などは、市場が飽和状態になったこともあり、売れ行きが悪くなった。そこで安藤は、インスタントラーメンの新たな市場として、アメリカに目を向けた。
当時アメリカでは、牛肉と野菜を鍋で煮込んだすき焼きなどの日本食が、エキゾチックでありながら一般的なアメリカ人の口に合うということで流行っていた。安藤は、インスタントラーメンにその可能性を見出した。
そこで、1966年にアメリカに渡り、「チキンラーメン」のプロモーションを行った。アメリカ人が、鍋で作ったラーメンを器に盛るのではなく、乾麺のパックを割ってカップに入れ、熱湯を注いで食べているのを見て驚いたという。
帰国した安藤は、このアメリカの調理法にヒントを得て、日本で売れる商品を作ろうと考えた。
□日清は試行錯誤の末、中央に置いた乾麺を発泡スチロールのカップで包み込み、膨らみやすくする工夫をしました。麺の上にさまざまなフレーバーを乗せることで、火の通りをよくし、満腹感を得られるようにしたのです。カップの蓋は、安藤が太平洋横断便で食べたマカデミアナッツの容器にヒントを得て、引き出せるようにした。
□1970年の大阪万博のロゴを手がけた大高猛がデザインしたカップは、小さな日本語の上に赤いサイケデリックなフォントで大きな英字を配し、高価なディナープレートをイメージした金の帯を入れるなど、国際的で先端的な印象を与えるものだった。カップヌードルは、乾麺とほぼ同じ量のラーメンが入っているが、製造コストが高いため、値段は4倍である。そのため、カップヌードルは高級品に見えた。
しかし、日本では歩きながら食べるのは失礼にあたります。また、箸を使うのも難しい。そこで日清は、人々の食べ方を変えようと考えた。カップヌードルには、プラスチック製の小さなフォークが付属していたのです。
日清はカップヌードルの普及と食べ方の指導のため、日本で試食会を開催した。最も成功したのは、1971年11月21日、東京・銀座の商店街で行われた試食会である。このイベントのターゲットは、日本で最もおしゃれな街、歩行者天国を歩く若者たちだった。
4時間で2万個以上のカップヌードルが売れた。
□また、自衛隊など移動の多い労働者にも売り込んだ。あさま山荘事件と呼ばれる人質事件で、警察官がカップヌードルを食べて暖を取る姿が報道され、カップヌードルは思わぬ形でメディアを賑わせた。
あさま山荘事件の報道では、警察官がカップヌードルの容器で食事をしている様子が描かれた。
単なるオシャレな食べ物ではない
カップヌードルは、冷蔵庫やテレビなどの家電製品やテイクアウトの食品など、便利で快適な生活を実現するという戦後の日本の風潮を象徴していた。
1969年、日本初のコンビニエンスストアが開店し、カップヌードルの主要な販売店となった。特に、日清は1971年7月20日、歩行者天国にオープンした日本初のマクドナルドの前で、銀座カップヌードルのイベントを開催した。カップヌードルは、日本で初めて自動販売機で販売された食品の一つであり、1971年11月に日本経済新聞社東京支社の近くに最初のカップヌードルの自動販売機が設置された。
その後、製法の改良と価格の低下により、インスタントラーメンは経済的に不安定な人々の常食となった。
カップヌードルは、日本で成功したマーケティング戦略をいくつか展開している。チキン照り焼きなどの和食からカレーなどのエキゾチックな料理まで、新しい味を次々と発売し、「チーチリ・カーマト」(チリ、トマト、欧風チーズカレー)のように注目を集める限定フレーバーも発売してきたのだ。1992年のテレビCMでは、ジェームス・ブラウンが「ゲット・オン・アップ」に合わせて味噌味のカップヌードルを歌い、印象的な広告を出した。
カップヌードルの味噌味の売り込みをするジェームス・ブラウン。
日本のルーツを隠したカップヌードル
しかし、このような戦略は、アメリカでのカップヌードルの販売には使われなかった。
アメリカでは、異国情緒やファッション性を抑え、アメリカの普通の食べ物になることで、別の道を歩むことになった。
カップヌードルは1973年11月にアメリカで発売された。当時、トヨタ自動車など日本製品はアメリカ製とは違うが、アメリカ人には分かりやすく、発音しやすく、受け入れられやすいデザインになっていた。
1993年に「カップヌードル」と改称され、スプーンで食べられる短い麺と、日本より少ないフレーバーが特徴である。
1973年、日清初の海外工場がペンシルバニア州ランカスターに開設された。2021年の現在、カップヌードルは80の国と地域で作られており、それぞれの地域で独自のバリエーションがある。例えば、インドではマサラカップヌードル、ドイツではマッシュルームカップヌードルが食べられます。2021年5月には、日清のカップヌードルは全世界で500億食を販売しました。
日本では今、カップヌードルはトレンドとノスタルジーが混在した存在になっています。日本のカップヌードルミュージアムでは、自分だけのオリジナルカップヌードルを作ることができます。ヨーダやハローキティなどの人気キャラクターが、日本でカップヌードルの売り子をしている。
アメリカでは、1996年から2006年まで、ニューヨークのタイムズスクエアに60フィートのカップヌードルのネオン広告が掲出されました。
タイムズスクウェアで本当に湯気がでている演出はすごく美味しそうに見えた!
https://www.nissin.com/en_jp/about/history/