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ネット個人民主主義の時代 日本のインターネット史 

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ネット個人民主主義の時代 日本のインターネット史

■ホームページ時代をふりかえって

Web2.0ブームが駆け抜ける中、表面上のテクノロジーの概念や、キーワードばかりがとりあげられているような気がする。日本にウェブが上陸して約10余年。その中から、ボクたち日本人が経験してきた独自のウェブの世界が存在している。それらの10年の日本のインターネット史を振り返り、未来を予測してみたい。

1994年、伊藤譲一氏が「富ヶ谷」という日本で最初の個人ホームページをスタートした。
ホームページの存在が何を意味するのかまったく未知であった頃だ。おそらく、ジョーイ(敬意をこめて)も何ができるのか?という疑問よりも、やってみることが大事だと感じたにちがいない。
ジョーイというインターネット大陸の一等航海士の目には、いつの時代もネットの新大陸が見えているようだ。今、彼はセカンドライフの仮想空間に島を購入している。そこに自分のスタジオやいろんなものを作りはじめた。

ジョーイは、常に、サーチエンジン、コマース、ブログ、クリエイティブコモンズと新たなインターネットのサービス起業家たちのファーストラウンド(初期段階)でインキュベートしている。彼独特の嗅覚で常に面白いサービスを探しだし支援しているのだ。ボクがとても気になるネットワーカーの一人である。
http://joi.ito.com/

【画像】ジョーイのお風呂にあったPSIのサーバ
http://joi.ito.com/jp/archives/2002/10/14/002593.html

1995年1月、阪神大震災で神戸市役所の職員、松崎太亮氏が個人の機転と独自の度胸で、震災の状況を連日レポートしたことにより、報道といったマスメディアの視点と違った生活者の視点で震災が神戸市のホームページで浮き彫りになった。
このインターネットによるパフォーマンスは、神戸市役所の名を世界に広く知らせることとなった。しかし、この功績は、誰にでもできることではないが、たった一人でもレポートしなくてはという意識を持ったものがいると、世界に神戸の今を、自分の納得のいくだけレポートできるということを知らしめた。しかも、テレビの情報を待つだけではなく、自らがURLで検索すれば神戸の震災の状況を知ることができるのだ。

【画像】神戸市震災資料室
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/15/020/quake/disaster/Jan-jp.html#18

デジタルカメラやデジタルビデオ、そしてインターネットというツールが個人の表現、自治体の広報手段に活用され、インターネットというメディアがいろんな意味で活用できそうだと多くの人に感じさせた。

銀塩写真では決して、このスピーディーさについていけない。新聞であれば、記事を書いて印刷する間に事象が変化してしまう。テレビであれば短時間でニュースとしてしか映像を流すことができない。しかもたったの一回しか使用されない。しかし、インターネットであれば画像は小さく、荒く、汚くても、文字で検索し、必要な時に必要な情報に、何度でもたどりつけるということが、このような災害を客観的にではなく、主観で物語れるようになった。数ある主観はいつしか客観へ変わった。

カメラマンであった生田昌弘氏が率いるキノトロープがウェブ制作をメイン事業としてこの年、インターネット事業に参入する。サーバを購入し、オラクルのデータベースで何ができるのかという挑戦を行った。1995年はまさにインターネットが萌芽した年であり、この巨大なウエブで何かが起こりそうだという予感にただ導かれて、この新しいメディアに対し、実験的な取り組みを開始するものたちがいた。

1996年、阪神大震災で取引先を失った元・漁師であった岩城達夫氏が岩城真珠をインターネット上で開店する。目の前に残ったものがインターネットしかなかったからだ。
ジャパンサーチエンジン(現・イー・エージェンシー)が「さぶみっと!JAPAN」で検索エンジンへの有料登録サービスを開始する。たくさんの検索エンジンに対し、確実に登録するためのノウハウを蓄積し、それをすぐに有料サービスとした。

早稲田大学在学中の橋本大也氏が「アクセス向上委員会」なるインターネットのマーケティング・コミュニティを開始。学生ながらベストセラーの著者となる。インターネット上のアクセスを向上させるアイデアは、学生であろうが、社会人であろうが、インターネットの世界ではまったく関係がなかった。かえって過去の経験や栄光を、ひっぱりだしても、この業界では、レガシーで邪魔な存在になることもあった。森本繁生氏が「電脳乞食」でメールで企業の商品を紹介し、バズを起こすというサイトを展開した。このマーケティングのコンセプトは、現在ではアルファブロガーたちで組織化する「おねだりボーイズ」に継続されている。

また、山本恭弘氏がとくとく.comで日本で最初の懸賞応募サイトなども開始する。

【画像】電脳乞食
http://www.ippin.com/kojiki/

【画像】おねだりボーイズ
http://www.onedari.org/

続々とインターネット上での新ビジネスから珍ビジネスが雨後のタケノコのように誕生していく。同時にインターネットをどのように活用すべきかとういうことで、情報の共有や、セミナーなどの勉強会も盛んになる。利益を追求するよりも、アイデアがすぐに形になるというビジネスモデルを学習してきた。

1997年、京都のネット衣料品店、イージーの岸本栄司氏がオリジナリティあふれる薀蓄にあふれるTシャツ専門店として、オープンし岩城氏と共に「インターネット商人」として話題を集める。生家を襲った阪神・淡路大震災で叔父と叔母を失ったを三木谷浩史氏が「楽天市場」で起業に踏み切ったのもこの年であった。

15才の起業家、家本賢太郎氏が、誕生日を待ち(代表者は15歳以上のため)、インターネットサービス会社「クララオンライン」を設立する。

波木井卓氏は、メール配信ASP会社、トライコーンを設立し「アウトバーン」という独自のメール一斉大量配信システムを開発する。現在、トライコーンはセプティーニ傘下。メールマガジン発行システムの老舗企業となる。
大川弘一氏と深水英一朗氏が、インターネットの本屋さん「まぐまぐ」のサービスを開始する。
無料でメールマガジンが発行できる仕組みを作る。「まぐまぐ」というキャラクターや、ユーザーインタフェースで、世界最大の発行部数を誇るメールマガジン配信会社となる。

萩原雅之氏(現・ネットレイティングス社長)が、マーケティングや調査のコミュニティとして
サーベイメーリングリストを開始する。現在も5000名にも及ぶ実名の所属を明らかにした会員を健全にモデレートしている。

1997年は、まさに日本のインターネットビジネスおよび、インターネットコミュニティの本格的なスタートの年であったと考えられる。年齢も職業も関係なく、続々とこのインターネットの世界へ、向こう見ずなベンチャーがダイブしはじめた。すでに実験的な意味あいはなくなり、実際のビジネスとしてのインターネットが、小さな小さな市場であったが、世界を変える何かを感じて多くの人の心を魅了していた。

この年、一番儲かったインターネットビジネスは、インターネットを解説した出版ビジネスであった。ゴールドラッシュに集まる人たちから利益を生み出したのが、丈夫なジーンズを販売したリーバイスのように、インターネットのゴールドラッシュに向かうためのインターネットの開拓者はたくさんのガイドブックを携えて、ウェブにのぞんだ。

この頃から、インターネットの小規模なベンチャーが続々と立ち上がり、ホームページ制作会社やホームページ制作のノウハウ本がビジネスとして成立しはじめる。

日本のインターネットの黎明期では、日本独自のインターネット文化が形成されていたように感じる。この頃は誰もが、インターネットの可能性に魅せられてなにかを展開しはじめたという暗中模索の時代であった。ある時は遊び、ある時は何か仕事になりそうなニオイをかぎわけた者がインターネットに大きく人生を賭けていた。ビジネスになるか、ならないかよりも、それがおもしろそうだからという理由が一番インターネットに人が魅了されていた。

■第一次、インターネットバブルとWeb1.0

1999年、中村豊美氏が「TOYOMI’S LOVELY WEB」でネットアイドルとしてデビュー。普通のOLが、インターネットでは、アイドルとして活躍できることを証明する。松山大河氏、尾関茂雄氏らが、ビットな飲み会を通じて、東京・渋谷で「ビットバレー」のムーブメントを起こす。

1999年からは、すでに先駆者はインターネットビジネスで起業を起こしはじめていく。玉石混合のウェブ制作会社は、デザイン主体から、プログラムやコンサルティング、マーケティング主体へと変わり、ウェブはデザインではなく、ウェブは企業の機能のひとつとして認識されはじめる。

新興企業向けの市場として、1999年、マザーズ、2000年ナスダックジャパン(現・ヘラクレス)、ジャスダックらがインターネット市場の上場を牽引する。

2000年、田口元氏が海外のドットコム企業を紹介するサイト「100式ドットコム」を開始する。

2000年、藤田晋氏が、インターネット広告専業のサイバーエージェントでマザーズ上場。

堀江貴文氏がオン・ザ・エッヂとして、マザーズ上場。しかし、米国のネット市場株価の暴落から、日本にも同様にネット企業に関する風評が風評をよび、株価が暴落する。

松島庸氏のクレイフィッシュからの社長解任、

重田康光氏の光通信株の下落などがさらに、インターネットバブルを加速させる。株価が一瞬にして紙クズ同然に消え去り、空前のベンチャーブームは終焉を迎える。

ビットバレーに群がった数多くのITベンチャーが一瞬にして蜘蛛の子を蹴散らすようにいなくなってしまった。

2000年インプレスウオッチの名物編集長 山下憲治氏が亡くなる。メールマガジンの広告枠などを発明した功績により「メルマガの父」と呼ばれる。ホームページには、今もなお、山下節は健在である。これから、人類は墓を残すよりも、ブログやホームページを残すことのほうが、遺族や知人にとっては重要であり、社会にとっても有意義であることを証明している。
「論破されるために議論する」は二度と彼と議論できないことを残念に思う。

【画像】Ken’s Home Page
http://home.impress.co.jp/staff/ken/

ネットバブル崩壊後の、ネット企業の悪いイメージは尾をひくが、インターネットが本当に一般の世帯にまで常時接続されるまでには2002年まで待たなくてはならなかった。個人が通話料金を気にすることなく、固定料金でアクセスできるそんな環境がなければ、インターネットのパフォーマンスは発揮できるものでなかった。

しかし、インターネットの成長規模にあわせて、適正な利益を出せる企業は登場してきた。当然、そんな企業にもすでに上場している企業からの買収の提案は、繰り返される。上場企業は、ネット企業のシナジー効果を考え、傘下に系列の企業をそなえ、グループ化ににおけるポータル戦略でヤフーの影を追うようになる。

2001年6月に、ヤフーBBがモデムを駅前でまるでクリスマスケーキを売りさばくような形で無料です!と配ったことは日本のブロードバンド時代を一気にもたらすこととなった。

NTTはISDNを光ファイバー接続までのつなぎと考えていたが、急遽ADSLへと進路を変更したことにより、ポータル戦争についで、ブロードバンド回線戦争へ向けて全面的な顧客抱え込み型へと進化した。ヤフーBBのとった戦略により、日本は低価格なインターネット回線を保持できるブロードバンド国家への道を歩みだした。

その頃、日本のインターネットメディアは、ヤフーの一人勝ち状態が続いていた。ヤフーの牙城を狙い、楽天やGMO、ライブドア、そして商社にメーカー型ISPであるニフティやビッグローブ、新興の有線ブロードバンド(現USEN)などが熾烈な、ポータルサイト戦国時代へと参戦していった。その市場には、すでに、上場に間に合った大手だけが参戦でき、小規模なベンチャーはすでにインターネットのビジネスにもおいてけぼりを食わされたような状態が続いていく。勝ち組同士の熾烈な争いであった。

■ブログとSNSの時代

そして、新たな展開がベンチャー企業から誕生してきた。ウェブログの登場だ。つまり現在のブログだ。ウェブログといわれていた頃には、まだ、日記更新ツールや簡易ウェブサイト構築ツールなどと注釈が必要であったが、いつしか、「ブログ」と命名されてからは、ブログ以上でもブログ以下でもない、単なる「ブログ」として浸透するようになった。

2001年「ウェブログ」という新しい、インターネットのトレンドが登場した。「ブロガー」と「ムーバブルタイプ」である。「ブロガー」は無料のサービスで海外のフリーランスのジャーナリストを中心に人気を集めていた。しかし、日本語にするとどうしても2バイト文字が化けてしまい、うまく表示できなかった。

「ムーバブルタイプ」は、サーバにインストールできる人たちにっては非常に歓迎された。中でも「トラックバック」というムーバブルタイプに実装された逆リンクの機能は、ブログとブログを物理的に結びつけるための機能として機能し、ダイヤルアップ接続以外のビジネスモデルを模索していた国内のISPにブログサービスとして、カスタマイズされて提供されていった。

ブログは英語圏を中心にブレイクしていった。ブログはフォーマットが決まっているのではなく、何でも自由に書ける。自由に書けるからこそ、何を書いていいのかがわからない。しかし、ブログの良さは、ジャーナリズムではないころにあるとボクは思う。

ブログがジャーナリズムとしてのツールにもなるが、誰もが、社会に対して文句をいいたいとか、社会の木鐸としての使命感を持っているわけではない。

ブログのいいところは、社会のためとか、正義のためではなく、ましてやみんなのためだとか思うととたんに難しくなってしまう。ただ、単に自分のためにメモ書きというスタンスが一番健全なブログだと思う。

気をはらず、力がぬけて書けるブログであるからこそ、職業ジャーナリズムとしてのネタや流行を追いかける時事ネタでなく、まさにこの世界で起きてる「世論」を垣間見ることのダイナミックさを堪能できるのである。

米国でウオールストリージャーナルのウェブサイトがトップであるが、5位にはboing boingというネタサイトが選ばれている。扱う記事の選択理由はおもしろいかどうかである。連日、ガジェットから時事ネタまでマスメディアでは決して取り扱わないようなネタがくりひろげられている。

ブログとガジェット(ハイテク小物)との相性はよく、常に連日更新されるガジェットサイトは人気サイトのひとつでもある。

2003年に、シックスアパートがタイプパッドをスタートし、ニフティがタイプパッドをベースに「ココログ」をスタートする。はてなダイアリー、ライブドアブログと続々とブログサービスがサービスを開始し、ブログビジネスが活性化していく。無料のブログサービスも増え、誰もがメールアドレスさえあればブログを構築することができるようになった。

しかし、このメールアドレスさえあればという参入条件の低さも問題となり、アタルト業者が自社にリンクを貼ったトラックバックスパムやコメントスパムといった、新たなスパム手法を開発したからだ。
これはブログとブログのせっかくのリンク機能を台無しにするものであり、ブログを通じた人と人との出会いをも阻止してしまう。SPAM業者を罰する方法もあるが、SPAMに反応しないという教育がもっと必要だろう。数万人に一人でもSPAMに反応する人がいるからSPAMがなくならない。SPAMを回避するために、すべての人が複雑なセキュリティシステムの中へ逃げ込むのは残念でしかたがない。まるで飛行場のハイジャック防止と同じかもしれない。年間を通じてのハイジャックによる被害額よりも、警備している時間とコストの方が実は膨大である。ハイジャックやテロは金額の問題ではない、社会悪であるが、スパムなども社会悪としての認識を持ったほうがよいと思う。

2004年、SNSのGREEとmixiのサービスが開始となった。mixiはすでに700万人もの会員数を誇り、日本最大のSNSとなった。スイスの人口700万人と同数である。

会員の紹介制という仕組み、デザインセンス、足あと機能などの実装により、限られた知人のコミュニティという世界で、独自の文化を築いている。

そして、現在、ブログとSNSは巨大なコミュニケーションのプラットフォーム、もしくはメディアとして急成長を続けている。

2005年9月末の時点ではブログ人口は473万人、SNS人口は399万人だったが、2006年3月末時点での総務省の集計結果でブログ人口は868万人、SNS人口は716万人とされている。つまり、半年間でどちらも倍増しているという結果となった。

2006年1月発表時のネット人口は7948万人(ゲーム端末携帯電話アクセス含む)。日本のネット人口の約5.9%がブログを持ち、約5%がSNSに参加している。

野村総研(NRI)によると、日本のブログ・SNS市場規模は2011年度に1706億円で、2006年度(222億円)の7.6倍に成長するという。同時にネット広告市場も7417億ドルにのぼり、2006年度(3,554億円)の2倍強になると予測している。

2006年12月21日
http://www.nri.co.jp/news/2006/061221.html

ブログやSNSの市場規模が7.6倍にも成長するという予測をそのまま受け取ることとしてみよう。たとえば、月額300円のアフリエイトやAdSenseの収入があるブロガーはあと5年すれば、月額2280円の収入となる。この金額ではあまりうれしくはないが、月額3000円のブロガーでは2万2800円とちょっとした収入である。現在、月額3万円稼いでいるブロガーは、22万8000円となる。単純にこんな計算にはならないだろうが、好きなことをして、好きなことを書いているだけで、食っていけるという職業としてのブロガーが大量に登場する可能性が秘めていることは確かだ。


そして、現在は 2014年9月14日

もう、このような牧歌的なインターネットの時代ではなくなり、実業としてのクラウドビジネスIoTオムニチャネルと続々とバズワードまみれのカオス。

毎年、日本独自のインターネット史も英語で記しておかないと、100年、1000年後の子孫にわかってもらえないのかも…。

 

http://www.tnooz.com/article/history-of-the-internet-and-a-few-travel-milestones-infographic/

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