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週刊少年ジャンプ653万部(1995)から215万部へ…1/3の規模にシュリンク

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少年ジャンプの全盛期は653万部売れていたそうだ…。

雑誌、書籍、そして、音楽が売れなくなり、映画のヒットも限られている。
テレビも視聴率は変わらないが、視聴者数は相当数離れたしまったようだ。

そう、すべての20世紀のメディアが、インターネットによってフラット化されてきてしまった。

このグラフを見ると、ジャンプの連載コンテンツによる影響も少なくないようだ。

「ドラゴンボール」や「スラムダンク」が終了した1995~6年あたりから激減している。

「ワンピース」の連載が1997年に始まっているにもかかわらずだ。

この頃はまだ、インターネットの影響もうけていない。i-modeも1999年だから、ケータイコンテンツでの影響でもない。

少年ジャンプの凋落ぶりの本当の理由は何だったのだろう?

「こち亀」はあまり影響していないことだけはわかる…。

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少年ジャンプの発行部数と主な連載漫画を調べた結果wwwwwwwwwww

編集長の影響か?


https://ja.wikipedia.org/wiki/週刊少年ジャンプ

部数激減を手をこまねいていた集英社ではなかったようだが…。

全盛期は、後藤広喜編集長(1986年から1993年)の時代に作られた。

後藤広喜編集長

3代目,西村繁男編集長時代には副編集長を務める。1986年から1993年までに4代目 編集長を務めたが、生え抜き編集長第一号となった。
後に集英社取締役を経て、2002年9月、集英社の子会社である創美社(現・集英社クリエイティブ)に常務取締役として出向。後に同社の代表取締役に就任したが、2008年その職を退いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/後藤広喜

堀江信彦編集長

1993年、同誌の5代目編集長に就任。1995年3・4号で653万部の歴代最高部数を達成。その記録は堀江本人の力で達成したものではないと自覚していたため、次世代の作家の育成のためジャンプ新人海賊杯などを企画した。しかし、目立った成果を出せず、有力な新人を育てられなかった。さらに、同年に終了した『ドラゴンボール』などの穴を埋めることが出来ず、発行部数が急激に減少。1996年に編集長を更迭され、『メンズノンノ』編集長に転属。翌1997年からは『BART』編集長を務めた。
2000年、『BART』休刊決定を機に集英社を退社。
https://ja.wikipedia.org/wiki/堀江信彦

鳥嶋和彦編集長

1996年(平成8年)2月に『週刊少年ジャンプ』の売上低迷を打破する切り札として、ジャンプ本誌に呼び戻され編集長に就任。『遊☆戯☆王』など連載作品のメディアミックスを精力的に推し進めた。前体制から続く発行部数下落傾向の結果、1997年(平成9年)には『週刊少年マガジン』に発行部数首位の座を奪われたものの、この頃から『ONE PIECE』や『NARUTO -ナルト-』などの新人作家のヒット作が再び出てくるようになった。以後2001年(平成13年)6月まで週刊少年ジャンプの編集長兼発行人となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥嶋和彦

高橋俊昌編集長

2001年(平成13年)に『週刊少年ジャンプ』の編集長へ就任。前任の鳥嶋同様、同誌連載作品のメディアミックスを精力的に推し進め、発行部数で『週刊少年マガジン』を逆転し、『週刊少年ジャンプ』を首位の座に返り咲かせる。
2003年(平成15年)1月24日、午後3時[3]から東京湾内のクルーズ客船「シンフォニーモデルナ」号上で催された同誌『ONE PIECE』のアニメ映画作品『ONE PIECE THE MOVIE デッドエンドの冒険』の製作発表会見に出席した際、その席上で突然倒れる。そのまま会見は中止されて急遽帰港、救急車で聖路加国際病院に搬送されたものの同日午後4時51分に死去。死因はクモ膜下出血であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/高橋俊昌

茨木政彦編集長

2003年12号より、急逝した後輩・高橋俊昌の後任として、週刊少年ジャンプ編集部の編集長に就任。集英社第3編集部次長兼務。2007年11月に「ジャンプスクエア」を創刊するため、ジャンプスクエア編集部の編集長を兼任で就任。2008年4月に、ジャンプスクエア編集部の編集長に専任となる。
編集長に就任後は、絵よりギャグ・ストーリーの質を重視した編集方針を貫く一方、新人の読切を積極的に掲載したり、「金未来杯」を開催するなどこれまでの「週刊少年ジャンプ」を支えた「新人発掘」を積極的に行っていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/茨木政彦

週刊少年ジャンプが「異常事態」だったことを示すグラフ


こうして見ると1996年から1997年にかけての『ジャンプ』の落ち込み(168万部減)が異常で、あとは各誌なだらかに減少しつつ、『ジャンプ』だけはがんばってるって感じですね。
ただし1996年の数字は「最高発行部数(自己申告)」で、1997年は同じく自己申告ではありますが平均発行部数だと思うので、差が強調されている点は見落としちゃいけませんね。「DRAGON BALL」の連載終了が影響してるという話もよく聞きますが、「DRAGON BALL」の最終回が掲載されたのは1995年5月なので、ちょっと時期的にズレてます。

https://mangaseek.net/post/6.html

このグラフを見ると、週刊少年ジャンプが「異常事態」だったことがわかる。

後藤広喜編集長(1986年から1993年)の時代が異常事態の売上だったと考えたほうが納得できる。

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