そもそもティーバッグは誤解の産物だった!日東紅茶の新ブランド戦略ムービー!

【<三井農林>キャンペーンに参加中】

日東紅茶って、いつの間にか、こんな変わったプロモーションを展開する会社になったのか!!!!eYekaというサービスで、ブランド戦略を一新しようとしている。

http://www.nittoh-tea.com/just4fun/

グランプリ作品!
https://www.youtube.com/watch?v=C6cRadx8SQM

銀賞
https://www.youtube.com/watch?v=X8jpkEZFuN8

銅賞
https://www.youtube.com/watch?v=nR_kN8R6E2M

※eYekaというサービスとは・・・ フランスを拠点とするeYeka 社が、企業のマーケティング・プロセスに消費者視点のアイディアを 直接取り込むことを狙いとして、2006 年より開始したオンライン上のコミュニティ・プラットホーム。 プロのクリエイターからアマチュア、学生まで、世界164 カ国約29 万人(2014 年時点)の クリエイティブ・コンシューマー(一般消費者の中のクリエイター層)が参加し、 企業は、彼らと直接的に、様々な創作活動を共同で行うことができる。 企業が投げかける課題は、新製品開発、ブランディング、パッケージデザインから動画・グラフィック作品まで 多岐に渡り、全てコンテスト形式を取る。eYeka に登録したメンバーは興味を持ったコンテストに自由に参加でき、 オンラインで投稿されたアイディアを企業が選定、入賞者には賞金が支払われる。 この仕組みにより企業が質の高い革新的なアイディアを短期間で獲得することを可能としている。


早速、クリエイター登録してみた!
このように世界中のクライアントからクリエイティブなコンテストが常時開催されている。

日東紅茶

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9D%B1%E7%B4%85%E8%8C%B6
http://www.nittoh-tea.com/

そもそも、ティーバッグというのは誤解の産物!

ティーバッグの歴史を紐解いてみると、摩訶不思議なことからスタートしている。

1904年、ニューヨークでコーヒー・紅茶の販売をしていたトーマス サリバン氏が、紅茶のサンプルを顧客に送るために、木綿の袋に一杯分のサンプルを個別包装した包みで送った。すると、ある顧客がその木綿の袋をどうやって使っていいかわからず、ポッドにそのまま入れて紅茶を楽しんだというのがティーバッグの始まりだという。

サンプル用の個包が、そのままティーバッグというホンモノでありながらもインスタント的に紅茶を楽しめることをアメリカに広めた。それが、本国の英国にも。

そして、いつしか紅茶はティーバッグという習慣が当たり前になった。

アジアの国では、ホンモノの紅茶を使っている証拠に、お湯とティーバッグのみが出てくるところも多い。

そんなティーバッグがもっとユニークに!GET ON UP!

本日は、頂いた日東紅茶でティーオーレ!
ミルクティーとちがって、水を一切使わずミルク100%!

ミルクパンでのティーオーレ

paul toshiaki kandaさん(@knnkanda)が投稿した写真 –


電子レンジで500Wで1分牛乳をチンしてもいいが、ミルクパンで弱火で沸々と気泡が出てくる70度くらいで火を止めてティーバッグを投入したほうが断然おいしい!!!

なぜ?電子レンジで温めたミルクよりも火で温めたミルクで作るティーオーレのほうが美味しいんんだろう?不思議だ。

 

紅茶の歴史

紅茶は、16世紀半ば過ぎ、ポルトガル人は植民地マカオと日本との往来の中で、日本の「茶の湯文化」に接しました。そして彼らは、お茶のための建物や器に莫大な金を払うこと、また、お茶のための作法など幅広い文化をもっていることに驚嘆しました。このことが欧米各国にお茶が伝播するきっかけとなりました。

西欧に初めてお茶を伝えたのは、オランダの東インド会社ですが(1610年)、それは紅茶ではなく緑茶(平戸で買った日本茶、マカオでポルトガル人から買った中国茶)でした。当時、オランダは中国やインドネシアとの東洋貿易に関して独占的な立場にあり、同じく東インド会社を経営していたイギリスは、やむを得ずインド貿易に重点を置いていました(インドで新種の茶樹・アッサム種が発見されたのは19世紀のことで、当時のインドにお茶はなかった)。

イギリスは、1669年にオランダ本国からのお茶の輸入を禁止する法律を制定し、宣戦布告します。そして、英蘭戦争(1672~1674年)に勝利を収めたイギリスは中国貿易で優位に立ちますが、実際に中国から直接輸入したお茶がイギリスに流通したのは、15年後の1689年のことです。この年を境に、イギリス東インド会社が基地を置く福建省厦門(あもい)のお茶が集められ、それがイギリス国内に流通するようになりました。1720年、イギリスは輸入独占権を得ました。

http://ocha.tv/history/western_tea_history/

紅茶のおいしいいれかた⇒http://www.nittoh-tea.com/enjoy/brew/
紅茶のマメ知識⇒http://www.nittoh-tea.com/enjoy/knowledge
日東紅茶の歴史⇒http://www.nittoh-tea.com/enjoy/history/
よくある質問⇒http://www.nittoh-tea.com/qa/

 

作家のジョージ・オーウェルも戦後の紅茶の配給制の頃にコラム紅茶の黄金率を発表している。

Post-war rationing of tea until 1952

The end of the war in 1945 did not signal an immediate end to rationing, and tea remained rationed until October 1952. It was shortly after this that the tea bag, an American invention, began to make an impact on British tea-drinking habits. It was to revolutionise the tea industry, and today 96 per cent of all tea sold in Britain is in tea bag form.

George Orwell offered sensible advice to make the 2oz ration go as far as possible

Rationing by no means diminished the British enthusiasm for tea. In January 1946, the author and journalist George Orwell published an essay called ‘A Nice Cup of Tea’ in the Evening Standard newspaper, calling tea ‘one of the main stays of civilsation in this country’, and listing his 11 ‘golden rules’ for tea making.He acknowledged the controversial nature of some of them – such as his insistence that the tea should be poured and then the milk added, World War 2 tea ration bookand that tea should always be drunk without sugar – but he also offered sensible advice to make the 2oz ration go as far as possible, such as using water that is still at the point of boiling, in order to make the strongest brew from the least tea. Orwell also used the ritual of tea-making as a device in his fiction. In his novel Keep the Aspidistra Flying, the main character, Gordon Comstock, makes tea secretly in his rented room as a means to undermine the oppressive authority of his landlady, who does not allow it. But the ritual and secret delight of Comstock’s evening cup of tea also reveals something about himself: Comstock, an aspiring poet, has attempted to reject everything that he associates with bourgois society – but he cannot reject its favourite drink.