【ITコラム】 「その男のパスワード」

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【あらすじ】

コンピュータを前にして、男はパスワードをどうやら忘れてしまったようだ。

時間の経過と共に、男はパスワードの意味を考えながら、自分がパスワードを忘れてしまった原因に気づいていしまった。それは…。

 

【その男のパスワード】

 

その窓は、ID、アドレス、ニックネーム、ハンドル…といった名前を要求していた。そして、次の窓では、パスワードを要求している。

 

男はパスワードを打ち込んだ。その窓は「パスワードがちがいます」と赤ら顔で答えた。

 

男はさらに別のパスワードを打ち込んだ。窓は「パスワードがちがいます」とさらに赤ら顔で答えた。

 

男はさらに別のパスワードを打ち込んだ。窓は「パスワードがちがいます」とさらにさらに赤ら顔で答えた。

 

このくりかえしが連続する…。かつてのよくあるシーンだ。

 

窓は今度は、この文字はなんですか?と読みにくい文字の画像を見せた。

 

男はその文字を大文字、小文字も間違えないように丁寧に判読して打ち返した。

窓は「文字がちがっています」とだけ、いつもの赤ら顔で答えて、さらに別の文字の画像を見せた…。そこでも、男は間違い続けた…。

 

その作業を繰り返せば繰り返すほど、男は焦りはじめてきた。

 

「俺はパスワードを完全に忘れてしまっている」と認識を始めるのに、あまり時間を要することはなかった。

 

「どうしてパスワードが思い出せない?」と自問自答する。しかし、思い出せないものは思い出せない。

 

男は呆然としながらも、パスワードを思い出す、とあるきっかけを思い出した。記録していた場所があるのだ。しかし、そこでも同様にパスワードが求められた。

 

最初は、単にログインできないという事象であった。しかし、ログインできないことには、コンピュータ側は男をまったく認識することができない。つまり、コンピュータ側からは、男は透明人間か、もしくは、何度も他人のサイトにログインしようとする悪者にしか見えないのだ。

 

パスワードを思いだせないだけで、男は自分のアイデンティをネット上では、何も証明する術をもちあわせていないのだ。

 

そこで、男は考えた。パスワードを思い出せないと、どんなリスクがあるのかを…。

 

まずは、自分の銀行口座にログインできないことには、資金を動かすことがまったくできない。証券会社の口座も同様だ。会社の社員の給与振込の認証すらできなくなる。そして、旅行中の今、自分を証明できるものが何もないということも…。

 

かつて、男のまわりには、自分を証明するものがたくさんあった。

知りあいの店では、顔パスが効き、いつでも「顔」で認識されてきた。運転免許証というクルマの技能証明書を見せれば、個人が住所とヒモづけられ証明できた。また、パスポートという渡航証明証があれば、世界のどこででも本人を証明できた。

 

しかし、その後、偽造技術が進化し、運転免許やパスポートなどは、いとも簡単に偽造され、役に絶たなくなり、生体認証へと進化してきた。

指紋認証、静脈認証、虹彩認証、網膜認証、 声紋認証、DNA認証と複雑になった。

 

人類はログインする際に、コンピュータに向かって、手をかざし、眼を見開き、異声を発し、まばたきしたり、唾液をたれながすというぶざまな行動をいつしかするようになった。

 

男は、たかがコンピュータ相手に、人間が類人猿化するのがとても許せなかった。

そこで、古風ではあるが、20世紀からの、ログイン・パスワード方式を愛用していた。

 

男は、そもそも、セキュリティという考え方に問題があると常々感じていた。

セキュリティは悪用する一部のものを排除するためのものである。しかし、排除されたり、不便が生じているのは、悪用しない大多数の普通の人の側である。

 

そもそもカギは、紀元前2000年に、エジプトで生まれた。無法者から財産を守るために発明された。それで、財を持つものはカギによって安心して眠ることができた。カギは物理的には財産を守り、精神的には安心を提供したのだ。

そして、中世ヨーロッパでは、カギは権力の象徴として、華美に豪華に複雑に精巧となり、職人たちは時計職人へと進化していった。19世紀となりシリンダー錠が発明されてからは、カギはさほど進化していない。あとは電子的なキーとなったくらいだ。

 

すべてのカギは、作った者がいる以上、必ず解錠される運命にある。それらを複数装備することによって時間稼ぎが可能となるだけだ。むしろ、一番のカギは、それらの無法者をつかまえる警察やガードマンなどの抑止力を増やすことだ。物理的な鍵はその現場に人が介在するので人数を増やせば、現行犯で捕まえることができた。

 

ネットワーク上のセキュリティとなった場合、2つの問題が生まれた。まず一つは、その犯行現場に犯罪者がいないことだ。現場の抑止力をいくら高めても意味がない。ネットのサーバを経由したどこかにいることくらいしかわからないからだ。

 

そして二つ目は、解錠された人が、何を盗られているのかがわかりにくいことだ。問題は後者の方で、事件化するためには、盗まれていることを証明することが必要である。

つまり、盗られていることを証明しない限り、盗られていないことになっているのだ。つまり、盗まれていることを気づかなければ、盗まれていないことになっているのだ。

 

男は、かつてユニークな実験をしてみたことがある。

家にカギをかけないでいると、いつ泥棒に入られるかという実験だ。

男は、人生数十年生きてきて、一度だけ空き巣に入られ、3万円ほど盗まれたことがある。しかし、その後は運良く一切ない。

そこで、男はカギをかけるのをやめてみた。それほど高価なものを持っているわけでもないからもある。重要なクレジット・カードなどは体と一緒に移動しているし、それもパスワードで管理されている。

ある日、カギを締めることにわずらわされない生活の快適さに男は気づいてしまった。出かける時に、カギを探さないでいい、カギの開け閉めの時間が全く不要だ。

 

マンションの入り口は暗証番号でセキュリティがあるのにさらに家にカギをかけている。

中世ヨーロッパでは、豪華なカギをもっていることはステイタスであったが、現在では誰もがカギをもってしまったのでまったくステイタスにもならない。むしろカギのいらない暮らしほどステイタスといえるだろう。

カギをかけないリスクと、カギをかけるベネフィットを、比較するとカギをかけないベネフィットの方が高くなっているのだ。

 

テロ事件以降、空港のボディチェック時間は慎重により堅牢となった。しかし、本当にそれでテロは防げているのだろうか?自爆テロでは、もう飛行機すら必要としなくなっている。ボディチェックにかかるコストと奪われた時間のトレードオフではテロの被害のほうが安い場合だってありえそうだ。そのうちすべての交通機関でボディチェックが必要となる時代にもなりかねない…

 

男は、自分のパスワードが思いだせない腹立たしさの間に、セキュリティの無意味さを次々と想いだしていた。

 

男はそこで、今度は、自分がパスワードを思いだせなくなった理由を考えてみた。

ようやく、思い当たる事を想い出せた。

 

先週、男は強烈な頭痛に襲われ緊急入院していたのだった。

麻酔を打ってもらってからは、頭痛は止まり、安静化していた。

しかし、気がつくとずっと安静化したままだった。もちろん、退院もしていない。

 

自分の部屋のつもりだったが、よく見ると宇宙の空間で、ただ黙々とキーボードを叩いている自分がいた。

 

いや、自分だけではなかった、宇宙の空間の中で何人もの人類が、黙々とキーボードやスマートフォンをかざしながら、類人猿のようなポーズを取りながら、パスワードを探していた。

 

21世紀初頭から、爆発的な情報量を持って個人が情報発信をしたり、SNSで日々の出来事をアップロードしてきた。その情報はマスメディアの情報をあっという間に追い抜いた。そして、その主人たちが、天命を全うした後も、それらの情報は瞬時に検索できてしまう。さらに、あたかも主人が生きているかのうようにさえ振舞っているではないか…。

 

主人が亡くなったサイトにさえ、毎日人々は書込みをして、亡き主人の反応を待っている。

行動履歴を元に、男は今週のこの時間はここにいるでしょう的な情報サイトは、自分の生前によくいった場所に訪れる用、知人や家族にレコメンドし続け、わずかながらのアフィリエイトの収益をもたらしていた。

 

さしたる遺産のない自分だったが、毎月収入を育むアフィリエイトも塵も積もれば山になっていた。下界では、家族や親類たちが、こぞって男のパスワード探しをはじめ、アフィリエイトの遺産相続問題を話し合っていた。

 

インターネット上の情報にはいつしか、書いた本人が「Live」か、どうかが明記されるようになった。

 

おわり。

 

 

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