ネタCentric第三世代ナレッジマネージメントで気づいた事

CNETの「ニコニコ動画から見える第3世代のナレッジマネジメント論「コト」「人」の次は「ネタ」」記事より参照。

第1世代ナレッジマネジメント「Document Centric KM
                文書共有を中心としたグループウェア

第2世代ナレッジマネジメント「Human Centric KM
        Q&Aコミュニティーやソーシャルネットワーキングサービス(SNS)など情報を持っている人を中心としたもの

第3世代ナレッジマネジメント「Neta Centric KM」   
        動画共有サイトのニコニコ動画や初音ミクをはじめとしたVOCALOIDシリーズの製品などがネット上で流行している現象


注目はP4からP5。観客サイドの変化である。観客が「評価」という仕組みで参加をはじめたことによって、さらに作り手のモチベーションをあげている。それは金銭目的ではなく純粋に他者からの評価である。
CNETではこれを「承認欲求の充足のため」と引用している。
これは、マズローの欲求5段階説でいうところの第4の「Esteem(自我(自尊)の欲求)が、満たされるというところにつきるのではないだろうか?

また、ニコニコ動画への「ツッコミ」は、ネット上での第3の「Belonging(帰属意識)」とマス・コラボレーションによる参加によって、第4の「Esteem(自我(自尊)の欲求)の恩恵の一部を「ネタ」によって満たされている構図だ。

広義のSNSにも言えることだが、観客、参加者という大きなフィルターが、個々の「ネタ」に対して評価を与えることにより、さらに「ネタ」そのものの信頼性も加速されていく。

SNSの場合、それらに「コト」「人」などの担保が保証されていることが魅力なのである。しかしながら、それらに常に「人」がつきまとうことによるわずらわしさも発生してくる。そこから、「匿名」という「コト」と「ネタ」だけに特化したコミュニケーションの存在も価値があるものとしてあがっているのではないだろうか?

また、日本人古来の、人より目立たない事、人よりも突出しない美徳意識と、完全なるアノニマスになれる事での自己の凶暴性を、己に非が及ぶことなく発揮できる場としてベストなコミュニティーにも存在価値が発生している状態だ。

76世代(1976年生まれ、大学時代にインターネット黎明期を体験世代)以前、生まれの人(ボクもその属性)は、常になんらかの「人」、「コト」の担保が必要であり、「ネタ」だけの評価は非常に苦手である。今後はそれらが弊害を及ぼすケースがおそらく増えてくることだろう。76世代紀元前生まれだからである。1976年以降のインターネット紀元後生まれと価値感や信頼感は大きく異なる。

とある作品の審査会でも、これは女性の作品ですか? 何歳の方が作ったのですか? プロの作品ですか?といった「ネタ」とは、全く関係のない議論が飛び交っている。作品の審査にはそれらはバイアスにあたるはずだ。審査員のご歴々が、社会に認められた人たちであるからだ。むしろ、ネット上のコンテストの類は、ユーザー評を集め、ユーザー評と審査委員評のバランスの配分が重要になってくるだろう。

当然、マーケットの方向はユーザー評が示唆してくれる。しかし、それだけで評価とはいえない。そこを専門家たちの評が生きてくる。

76世代以降、86世代(1986年生まれ、小学生でインターネットを体験、現在21歳)までは、その「ネタ」「コト」「ヒト」のバランスが非常にうまくとれていると感じる。2ちゃんねる、ニコニコ動画、76紀元前がノイズに感じるようなことも、76世代以降は、気に入らない情報は見事にスルーできる能力を身につけている。

しかし、76世代はマスメディアで育ってきているので、「マスメディア」や「人」という要素が重要だ。「テレビ」でよく知られたキャラクターなどがモチーフとなっている。

しかし、86世代以降は、そこから「ヒト」や「マスメディア」という担保が、あまり必要でなくなってきているように感じる。というのは、リアルワールドと同様にサイバーワールドがリアルであるからだ。両親が転勤でたまたま引っ越してきた小学校で、たまたま家が近所で友達になった友達と、昆虫が好きで、ネット上の学習SNSでずっと意見を交換してきた顔をまだ見ぬ遠方の友達とどちらが、「ネタ」や「コト」が共通しているだろうか?

モバゲータウンやセカンドライフでの友人は、リアルな「ヒト」とヒモづける事なく、友人と認識している。

ナレッジマネジメントの分野でも、そのような影響を受け初めているという事は、近い将来、ビジネスの現場にもこのようなコミュニケーションのあり方の変化は如実に現れてくる事だろう。

ボクは、知りたい事を端末で簡単に調べられる現在の子供たちが、知識の面では簡単に大人を打ち負かす時代がくると信じている。その時に大人が、子供たちのためにどれだけ、自分たちが長年かけて得てきた経験を彼らに提供する力量を持っているかが試されているように思う。

一番懸念していることは、知識で負けた大人たちが、経験を権力の力で防いだり、子供の未来を懸念するフリをしてネット上の弊害をメディアを駆使して煽ることである。

もはやメディアリテラシーやネットリテラシーが必要なのは、76世代インターネット紀元前のわたしたちのようだ。

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