父、神田友治(86)、肺炎で永眠いたしました 2018年5月23日

2018年05月24日(金)に親族のみの密葬を正蓮寺(神戸市兵庫区)でとりおこないました。なきがらは、大阪歯科大学黄菊会に遺言どおり献体させていただきました。
https://www.osaka-dent.ac.jp/kigiku/

本日、2018年5月23日(水)12:05 神戸市民病因にて、父、神田友治(86)肺炎にて心臓停止。

5月25日(金)が87歳のお誕生日でした。

ずっと厳しかった父。
いつも、怖くてしかたがなかった父。

子供の頃は、お小遣いを貯めて、おもちゃを買ってきても、父には怒られるから、
隠れて遊んでいた…。父がお酒の配達から帰ってくると、そそくさとゲームを隠す日々。
見つかるとそれをおもちゃ屋さんに返金してこいと言われ困惑する…。
おもちゃ屋さんはボクの顔を見ると、いつしか、何も売ってくれなくなった…。

話が合ったのは、映画好きなところと読書好きだったところくらいだ。
映画を見たあと、「この映画が言いたかったことは何だ…?」と問われる。
だから、いつも映画は、この監督はどういう想いでこの映画を創ったのかを考えさせられる。
映画を見ながらも、監督の伝えたい結論が見えてくると安心した。映画を見ながらも「考える」というクセはその時に父から習得したものだ。

ゴジラ対ヘドラ」でも確か、公害問題の悲惨さを父に伝えたはずだ…。珍しく父が褒めてくれた。うれしかった。
また、上映時間にあわせて映画をみない父との映画鑑賞は、いつも途中から映画を見て、最終的に頭から見て、ようやくつじつまがあうという、モンタージュ的な鑑賞スタイルだ。だから、途中から見て、ラストシーンがわかった上で、ファーストシーンを見かえす。監督の意図しない映画の視聴方法だ。

これは、ある意味、どんな最初のシークエンスがくるのかをいろいろ予想できたりする。幸い、我が家は通学路にあり、映画のポスター板の設置場所として場所を提供していたから、近くの映画館は、父と一緒に行くと、どの映画館でも、すべてフリーで鑑賞することができた。これは良いバーターだった。

我が家は上沢2丁目だったが、上沢4丁目の「貸本屋」にはよく通った。父の読書量はすごく、3〜4冊は一度に借りてきては読破していく。そして、父は、マンガの単行本以外はなんでも借りてくれた。
まわりの友達が永井豪の「ハレンチ学園」にハマっているのに…。我が家はご法度。

江戸川乱歩の少年探偵モノが一番ハマった。ルパンやホームズの少年少女ものも読んだが、小林少年の活躍に一番心が踊った。ホームズがアヘン屈にタムロしているシーンを小学生では想像がつかなかった…。

父が唯一許してくれるマンガは「手塚治虫」だった。そのうち「サイボーグ009」のコンセプトを語り、「石森章太郎」もOKとなった。「赤塚不二夫」や「永井豪」はNGだったので、書店で立ち読みをする。店員さんにハタキで叩かれながらも、週刊誌の発売日には書店にかけつけた…。

極度のエディプスコンプレックスから、高校時代から勝手に自立し、まったく家に寄り付かなくなった。
音楽にのめり込み、ガールフレンド宅から高校へ通うようになった日々。
最初のアルバイトは新聞配達から始まり、ギターを買い、喫茶店からロック喫茶、バーでのバイトまで。
高校時代には、バンドでキャバレーで演奏するなんてこともあった。
高校時代から自活していたのだ。

高校時代、父とは対立し、数年間、ホント目を合わせたこともなかった…が、たまに目があうと、殴り合いのケンカになった…。まさに「寺内貫太郎一家」だ。
その半面、母にはホント辛い思いをさせてきたと思う…。

大学時代はさらに、放蕩ぶりを発揮。自分で夜の商売を掛け持ちしながら、テニスのコーチの高給バイトにのめり込む。ますます家に戻らない…。
就職で東京、結婚し、長女を授かり、次女も授かった…。

大人になってからは、脱サラで、神戸で戻り、子供たちと、両親が一緒に同居し、家業を継ぐことになったが、とてもじゃないけれども、一緒にやっていけないほどの対立…。どちらもお互いが邪魔で面倒。

こちらが、折れて、家業を継がずに、新たなことをやり始めた。

大人になっても放浪癖は、抜けず、ジャーナリストという仕事がうってつけだった。
神戸から米国に渡り、米国経由で東京。東京からまた米国に渡り、米国経由で神戸という生活。
その頃、離婚していたが、身重の母には伝えていなかった…。もちろん父にも…。

母が亡くなり、父が1人残った…。生活はゴミ屋敷化していき、弟の提案で施設のお世話になることとなった。父は老いてさらにガンコになり、さらに痴呆が追い打ちをかける。

娘と同い年の奥さんと結婚し、父をたずねた時、父は奥さんをずっと娘と勘違いしていたようだ。そして、あまりボクのことも認識していない。話はさっき話したばかりの話に戻る…。

この数年、様態が芳しくなかった…。ついに、栄養も口から取れなくなり、「胃ろう」手術をという選択をしたばかりだった。母の「人工肛門」手術時もそうだが、生きるためには、なにをしてでもという現在の医学には疑問を感じている。人生の定年も自分で決められるものなら決めたい。

父、神田友治は、兵庫県の三田市本町で生まれた。
幼い頃に、父、母を亡くし、4人兄弟でパン屋を引き継ぎ、暮らしてきた。
父は次男で長男、長女に次ぐ3番目で弟が1人いた。
苦労した話をいつも聞かされて育った…。
まさに是枝監督の「誰も知らない」の原作のような話だ。

母とはお見合い結婚で、父が養子の形で酒販店にはいった…。
母方の祖父、祖母も引退し、父と母に店舗「高田屋福店」を譲った。

灘五郷の酒造メーカー、金盃(きんぱい)酒造株式会社に奉公として入った満田松治が、のれん分けし、神戸市兵庫区上沢(かみさわ)の地に「高田屋福店(たかだやふくみせ)」を創業。
松治の次女、喜久子が高田屋福店を継承し、婿養子として神田友治を迎え、高田屋福店二代目に襲名。そして三代目の長男敏晶は、酒販店業を営むために東京でワイン業に就労するが、1990年代マルチメディア全盛時代にメディア業に転身。現在に至る。

高田屋福店(たかだやふくみせ)神戸市兵庫区上沢通2丁目
兵庫県三田市出身のパン職人あがりの神田友治の経営は、かなり異端であった。良くいうと、差別化経営だったが、それはわざわざ労を選ぶ経営だった。

キリンビールのシェアが70%とガリバーに近いのに、サントリービール専売特約店となる。得意先の料飲店はことごとく離れていく。それでも友治はサントリーを売り続けた。しかし、時代が早すぎた。友治は一度決めたことは、最後までやりぬく人であった。

酒屋なのにビールが売れない。そこで友治は、商材を大幅に変えた。「自然酒」「果実酒」「みりん」というオーガニック市場に目をつけ、1711年創業の仁井田本家の金寳自然酒、手作り果実酒、角谷文治郎商店の三州三河みりんという差別化商品で経営をおこなう。

遠方への配達などと非効率ではあったが、本物志向の客だけを相手にするという商売を続けた。


https://4knn.tv/takadaya-fukumise/

今夜、これからクアラルンプールをたち、父の抜け殻に会いに行く…。

神田教」では、すでに父は生まれ変わって、この世に誕生しているはずだ。
父が長年お世話になったハードウェアの体を供養しにいく。

母を亡くしてから、いつかこの日がやってくることはずっと覚悟していた。いや、きっと父のほうが自分よりも長生きする気さえしていたほどだ。しかし、いざ訃報を聞くと、今までの覚悟の感情とは、別の感情が一気にこみ上げてきた。きっと、ずっと意見のあわなかった父と、もう一生ケンカしなくてすむ安堵感よりも、誰よりも一番ながい間、自分のことを知っていた人がこの世から卒業されたことだ。
多大に、父と母の影響を受けた人間が、男2人が残っているのだ

人生は儚い。
生まれた瞬間から死ぬというゴールを誰もがわかっている。しかし、誰もがそのゴールを実感していない。
死ぬまでの間に何ができるか?何をしてきたか?
そこが、問われるのが人生だ。
誰の為でもない。自分が思ったように、自分が描いたままの人生を自分の為に歩めるのか。
そして、できれば、誰かに感謝される人生でありたい。
うちのお父さんは、果たして幸せな人生だったのだろうか?

お父さん、安らかにおやすみなさい。そして、世界の何処かでの、ご誕生おめでとうございます。

原色好きな派手な神田家の父と子

奥さんのことが、娘と勘違いして、よくわかっていないお父さん。
しかし、もうすぐ帰りますといった途端に号泣…

車椅子となった父

母の葬儀後

父方の親族との写真
ふざけて、ひんがら目とか、一瞬でも目をつぶるとひどくおこられた銀塩カラー写真の時代

まったく記憶のない頃…この頃に子供をいろいろ連れていっても両親の自己満足でしかない(笑)

馬が怖かったことだけ、うっすら覚えている…。

親子4人の写真

おそらく、父の実家の三田市にて

上沢通一丁目公園

お父さん、よく頑張ったね。

いってらっしゃい!