「JR京浜東北線など一時ストップ、10万人に影響」
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最初に、無くなられた方にはご冥福をお祈りしますと言葉上では言いたい。
しかし、電車への投身自殺だとすると、残念というよりも、それはむしろテロに近い行為だとボクはずっと思い続けている。
死にたくなる気持ちはわからないでもない。
でも、実際に行動に起こした場合の、まわりへの影響や配慮を少しは考えるべきだろう。いや、そんなことを考える余裕があれば、「死」という選択肢はないのだろう。それほど切羽詰まっていると思われる。
自分の中で、相当な決断をされたか、ほんの一瞬の心の中のゆらぎだったのかもしれない。ただ、電車に轢かれるという死の選択は、人間に産まれきた価値や目的や尊厳を台無しにしているような気がしてならない。死んでから人様に迷惑をかけるというのは最低の死に方だと思う。
五体が満足でない人や、病気で日々苦しんでいる人、本当に死んでしまいたい人、死んでも死にきれない人たちにとっては、いたたまれない気持ちでいっぱいになるだろう。
せめて、使える臓器や、血液、働けるポジション、いろんな部分を共有してから、自らの命をまっとうしてほしい。
生きていくことが、死を選ぶよりも、ハードだったと思う。
しかし、自分だけの視点で考えるよりも、いろんな価値観の視点で自分を見直す余裕さえあれば、いろんなソリューションは登場してくるかもしれな
い。いや、絶対にそうだと断言はできないけれど、前向きに倒れてさえいれば、誰かが邪魔になって、起こそうとしてくれる世の中だと思う。後ろや横や斜めで
あれば、簡単によけて通られてしまう世の中だ。
かつて、ボンベイだったインドのムンバイでは、普通の横断歩道で、のたれ死んでいる人間があちらこちらにいた。ハエがたかり、ウジがわいた人間の
屍が、ボンベイにおける銀座で見られた。最初は驚いていたが、2日後には、車に轢かれた猫の屍と同様な視点になっている自分に気づいてしまった。
電車の中で、人身事故の放送を聞くと、「ご冥福を…」というよりも先に「またか…」という気持ちでいっぱいになってしまう自分がいる。みんなもそうではないだろうか?
5月病とかの時期になるとJRの中央線あたりは、メッカになってしまう。
「赤ちゃんポスト」とよばれた熊本市の「こうのとりのゆりかご」の認定には、いろんな立場から議論された。しかし、熊本市では命の尊厳を考えた場合には、「赤ちゃんポスト」の認可で少なくとも命は救えるという判断だった。
その子にとって、それが幸せかどうかはわからない。
それが人生だ。
この東京で人身による事故で、10万人近くもの人が足止めになるということは、経済損失だけではなく、貴重な人生の機会損失でもある。最近では痴
漢の冤罪でも電車が止まる。携帯のおかげで、連絡がとりやすくはなったが、ボクたちは移動に関しての代替手段やイニシアティブをまったく持ち合わせてはい
ない。なされるがままだ。投身する人に、人々の日常の選択肢を奪う権利はないはずだ。
むしろ、投身、それはテロ行為だと認識してから死ぬべきだと思う。
投身自殺は不可抗力ではなく、防ぐ方法もあるはずだ。
もっと楽な死に方を提示するのも、最後のひとつの方法だ。
しかし、人に迷惑をまったくかけずに死を選択する方法は、意外に少ない。痛みも伴ないで死ぬ方法も少ない。死ぬということは、死ぬほど痛かったり、苦しいことなのだ。
それでも生き続けているよりも楽だから人は死を選ぶのである。
死にたいと思っている人は、誰に相談すればいいのだろうか?そんな相談を、どこかの第三セクターや政府の外郭団体がおこなっているのだろうか?
余計な天下り法人ばかりでなく、死にたくなった時の本当の最終カウンセリングや、本当にどうしても迷惑かけない死に方をアドバイスできる方法を示
せる団体があるべきではないだろうか? 行政サービスであれば、貴重な労働力、納税力を確保すべきところだろう。少なくとも、遺体の事務処理には税金がか
けられている。
金だけで困って死ぬ人であれば、「生前葬」という、行政で事前葬式を行う段取りをとることもありだろう。利用されていない施設はいくらでもある。
また、完全匿名で、農業で過疎に苦しむ土地で2週間ほど、大地を耕して土にまみれてから、死を考えても遅くはないだろう。一度、鶏の首を絞めて命の躍動を手の平で感じてみるのもいいだろう。それを食する自分と対峙するべきだ。とても鶏になりたいとは思わないだろう。
まぐろ漁船で借金をチャラにする施策などもあるかもしれない。臨床心理士にカウンセリングを受けるだけでなく、カウンセラーになるための勉強をしてみるのもありだろう。いろんな方法はまだまだあるだろう。
死を目前にしている人に、匿名での個人の担保を保証する団体を運営すれば、JRから運用資金を調達することもできるのではないだろうか?投身する人を減らすための経費は決して安くない。
死という選択肢の前にできることは、本当は、いろいろあるようにボクは思う。残念なのは、当人に、生きる意欲が残っていないだけである。その最後の一線くらいは、国が面倒みようではないか!
死ぬ前にいくつかの映画をたったの2時間だけ見てもらうことだけでも、もしかしたら、考えが変わるかもしれない。「シンドラーのリスト」でも「ブラッドダイヤモンド」でも「砂の器」でもなんでもいい。
5月病の前にTSUTAYAに「私が死ぬまでに見たい10の映画」というコーナーを作るくらいでもいい。むしろ今の時期は、「私が中央線に飛び込む前に見たい映画」といってもいいだろう。
少なくとも、電車に投身するという、人間の尊厳にかかわるような死に方ではなく、かつて日本が、割腹の介錯をし、生命を絶つための作法やマナーを重んじてきたことのように、死するべきの作法を尊ぶ時代ではないだろうか?