http://bylines.news.yahoo.co.jp/kandatoshiaki/20150125-00042524/
「何が起こっても、責任は私自身にあります。シリアの人たちに責任を負わないようにしてください」とビデオメッセージに残した。
彼の心情を尊重すると、憎しみは、さらなる憎しみしか生まないということを理解しておくことが重要なのだ。もちろん、彼の生還を祈りつつも、万一の事も想定しなければならない。野党がそれをネタに与党を追求する材料にするのもあさましいので忠告しておきたい。追求するよりも、与党と協力し、野党らしい建設的なアイデアをだすべきだ。政治の足をひっぱるだけの野党はいらない。
後藤健二さんの生前ダイイングメッセージの精神を尊ぶならば、誰も憎まない平和的な解決策を一番望んでいることだろう。
ひとりひとりが、I am KENJI の精神で耐え忍ぶこと
2015年1月21日、後藤健二さんと10年以上の交流があるニューヨーク在住の映像制作会社代表は、facebookで、「I AM KENJI」と書かれた紙を掲げた写真を掲げて、後藤さんらの解放を呼びかけた。
https://www.facebook.com/IAmKenjiGoto
当然、これはフランスの風刺新聞のシュルリ・エブドの「私はシャルリ」「#jesuischarlie」の言論の自由と、テロへの不屈の精神のオマージュでもある。しかし、この活動は、イスラム過激派に対しての反骨精神のあらわれだ。なんとかイスラム国側と交渉し、人質を開放させるというゴールを達成するためには、反対の活動と映るかもしれない。
しかしだ。
「(もしも)私がKENJI(だったら)」と仮定してみた場合の想定ができる。
生まれる子供を見ないまま、わざわざ救出にかけつけた人の死を見せられ、そして、脅迫声明を録音され、友人の惨殺写真を手に持たされて写真を撮られる。これはもう、男性にとってもレイプ以上の屈辱でしかない。それでも「シリアの人たち=イスラム国に責任を負わせないでください」という彼の人類に対する優しさという最大の日本人の兵器を忘れている。
I am KENJI の意思表示は、人質開放だけを懇願するだけのメッセージではなく、世界を平和的に解決をしようとする武器を持たない日本人としての強い意思表示なのだ。
ボクのこの写真は、2004年2月、フセイン政権が倒された時のイラクのバグダッドから。その翌月に邦人が3人拘束され「自己責任」と小泉元首相が口火を切った。紛争地帯にはいるジャーナリストやNGOはそんな自己責任なんてことを他人に言われる前から当然覚悟の上だ。自分の命を賭してでも訴えたいこと、助けたいことがあるからだ。それこそ表現の自由の最終形だ。
IamKENJI 私はKENJI イスラム国にも日本人の平和的精神が届くことをのぞむ。
そして、「1.金は出すけど手は汚さない」「2.金も出すけど手も汚す」「3.金も出さずに手も汚さない」「4.金も出さずに手だけを汚す」
四択問題でどれが一番、日本人らしかったのだろうか?
野党はもっとここを議論すべきだ。責任問題と世論の利用をする政治利用だけは万一のことがあってもやめていただきたい。後藤健二さんは決して喜びはしない。
後藤さんらしきメッセージで「人質を解放すれば、私も助かる」…の台詞は、I am KENJIであれば、絶対に言わないだろう。それが日本男子であり、ジャーナリスト後藤健二だからだ。
「私はKENJI」の平和的解決手法の精神は、イスラム国にも屈することなくこれからのテロに対する精神的支柱をギフトしてくれたと考えたい。