鉛筆
ラザール・カルノー
黒鉛の筆を筆記具として使っていた。
科学者のフランス人のニコラス・コンテとドイツ人のカスパー・ファーバーにその改良を命ずる。
戦争ではじめて鉛筆が使われた。
1795年にコンテは、黒鉛と粘土を混ぜて焼いて作るという、現在と同じしくみの芯を開発した。コンテの開発した方法では、黒鉛を大幅に節約でき、また黒鉛くずも利用できた。更に、粘土の量によって芯の硬さや書く文字の色の濃さも変化させることができるようになり、鉛筆は必要に応じて硬度別に生産されるようになった。またコンテは1798年パリで催された世界初の国内博覧会で、黒芯の発明により、賞を受賞。
1839年、ドイツのローター・ファーバー(ドイツ語版)はコンテの黒芯を用いて現在と同様の六角形の鉛筆を開発すると共に、鉛筆の長さや太さ、硬さの基準を設けた。彼はまた初めて会社名を鉛筆に刻印した。この功績からファーバーは男爵の爵位を授かり、王室顧問にも就任した。彼の会社は現在もファーバーカステルとして鉛筆をはじめとした筆記具を製造している。
びん詰
戦時中の食料対策
遠征における食料補給の問題に悩まされていたナポレオン・ボナパルトによる懸賞に応え、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能な瓶詰めが発明された。
ナポレオン時代は、瓶詰めのジャースタイル
1795年ナポレオンは新鮮な食料を長期保存する方法を考えた者に賞金1万2千フランを与えるとおふれを出した。
1804年に料理長をしているニコラ・アペールによって瓶詰めの方法が考えだされ
見事、賞金獲得、ナポレオン皇帝直々に勲章を賜る。
缶詰の誕生はフランス革命とナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)と深く係わりがあるといわれている。
フランス革命は1789年7月14日バスティーユ牢獄攻撃を皮切りに火ぶたが切られた。
1792年に王政を廃止し国民公会が召集されると共和体制が樹立され、新しい総裁政府は周辺諸国への戦線を拡大しすでに数々の輝かしい戦歴を重ねてきた若きナポレオン・ボナパルトはイタリア、オーストリア、エジプト遠征で指揮をとりフランス軍を勝利に導いていった。
外国遠征で東奔西走し戦闘に明け暮れるナポレオン・ボナパルトにとって、栄養豊富で新鮮・美味の兵食を大量に確保することが兵士達の士気の維持、高揚に不可欠と考え、総裁政府に軍用食糧貯蔵法の研究を要求する。
当時の食物貯蔵は、塩蔵、薫製、酢漬けを中心としているため味が悪いだけでなく腐敗も多かった。
政府は兵食の長期貯蔵に関する研究委員会を設置し、公募を行った。
ニコラ・アペール 1804年に、ニコラ・アペール(Nicolas Appert)はガラスびんの中に食物を入れ密封し加熱殺菌して保存する新食糧貯蔵法を発明した。
「広口ビンに調理しておいた食品を詰め、コルク栓をゆるくはめる。次に湯せん鍋に入れ沸騰点において30-60分加熱する。びんの空気を駆除した後にコルク栓で密封する」。この貯蔵法は1806年に数種類のびん詰を船に積み、赤道を横断し温度、湿度の変化する条件で輸送試験を行ったところ、船長、海上提督から極めて高い評価が得られた。海軍にとって最大の災禍であった壊血病防止に役立つために、塩蔵品に代わって食糧に採用された。
http://www.seikan-kyoukai.jp/history/
缶詰は1810年に登場する
缶切りは、缶詰に遅れること48年の1858年
非ユークリッド幾何学
ナポレオンの定理
正三角形の頂点ともとの三角形の頂点を結ぶ3本の直線(AL,BM,CN)は1点で交わる。この点をナポレオン点という。
ナポレオン点はもとの三角形の3つの頂点・重心・垂心を通る双曲線上にある。
フェルマー点
http://mathtrain.jp/fermat
ヒエログリフの解読
これを成功させたのはシャンポリオンでナポレオン退位後ですが ナポレオンがエジプト遠征でロゼッタ・ストーンを持ってこなければ、ヨーロッパでの解読は 無理だった
マーガリン
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたる、
ナポレオン3世 1869年、
軍用と民生用のためにバターの安価な代用品を募集したところ、フランス人のイポリット・メージュ=ムーリエ(フランス語版)が牛脂に牛乳などを加え硬化したものを考案。これは、オレオマーガリン (oleomargarine)[10]という名前がつけられ、後に省略してマーガリンと呼ばれるようになった。ムーリエの考案したマーガリンは公に採用され、その後1871年にオランダのアントニウス・ヨハネス・ユルゲンス(オランダ語版)が特許権を買収。ユルゲンスはサミュエル・ヴァン・デン・バーグ(オランダ語版)と共にマーガリン・ユニ(オランダ語版)を創業し、これは現在のユニリーバに繋がっていく。