2015/01/27
2015年1月27日、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがおよそ100万人のユダヤ人を虐殺したポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所が解放されてから、実に70年目を迎えました。
神戸・北野町にミドルイースタン中近東料理の「サラーム」というレストランがあった。
ボクは学生時代にそこで、ホールのギャルソンをやっていた。ソムリエのまね事、キッチンでの仕込み。
キッチンでは、ヘブライ語が飛び交っていた。
「ハバイタ」「ケン」「メジャッダラ」「コフタ」「レガ!レガ!」
不思議なもので一緒に働いているとシチュエーションと発するタイミングで理解できるようになる。
学生時代に、シシカバブーやら、イスラエルワイン、北野町のインド人、中国人らのクライアントと共に、ユダヤ人の合理性を学んだ。
その後、イスラエルに何度も行くことになるなんてこの時は思いもしなかった。
アウシュビッツ閉鎖から70年でNHKのニュースで、ビクター&弘子ナバルスキーご夫妻のニュースを見かけた。
2015年1月27日放送 21:00 – 22:00 NHK総合
ニュースウオッチ9 (ニュース)
北海道・七飯町に住むナバルスキー弘子さんの夫のビクター・ナバルスキーさんは、10年前に亡くなった。ユダヤ人を捕らえようとするナチスから逃れるために12歳になる終戦まで2年半に渡って一家で逃亡生活を送っていた。ナバルスキーさんは生前、全国を回り、ドイツ軍占領下の逃亡生活について語っていた。晩年は幼少期の体験を若い人たちに伝えることに力を注いでいた。七飯高校には、ナバルスキーさんの音声メッセージが残されている。
VTRを振り返り、スタジオトーク。大越健介はアウシュビッツ強制収容所を尋ねたときの話をし、「戦後世代が国が経験した戦争をどう語り継いでいくかが問われる時代に入っている」と話した。
そう、神戸のサラームは、弘子ナバルスキーさんが経営するレストランであり、そこで学生時代にお世話になっていた。
ビクター・ナバルスキーさんは、自分の目の前で、お父様とお母様はナチスに銃殺された。
もう、その話は当時のボクには壮絶だった。祖父とか祖母の日本の焼夷弾による焼け野原よりも何倍も悲しい。
学生時代のボクは、なんと答えていいのか、コトバが見つからなかった。
ビクターさんは、15ヶ国語をしゃべる。当時のユダヤ人はイスラエルが建国されておらず、世界のどこでも暮らせるように言語を死ぬ気で覚えたそうだ。まさに死ぬ気で生きたとおっしゃられていた。
ビクターさんは「ナヴァロック」という船舶関係の鍵の仕組みを発明し成功する。
なんと、テレビで見た、ビクターさんは、10年前に亡くなられたという。知らなかった…。しかし、時は確実に30年も流れているのだから当然いろんなことが起きる。
弘子さんもお元気そうだったが、鼻から呼吸をされているご様子。
こちらからは連絡の取りようがないが、こんなブログでも書いておくと、どこかで誰かが結びつけてくれると思う。
北海道にいらっしゃるという。
エリアザ・ナバルスキーさんや、サイモンさん、アランさんはどうしているのだろうか?
ふと、ユダヤの人たちが30年ぶりに懐かしくなった。
学生時代のいろんな体験は、その後の人生のいつも生き字引となってくれる。
あの頃にブログや、スマホがあれば、もっとボクの人生は明確に記録されていたことだろう。
少し、早く生まれたことを後悔する今日。
今、小学生だったら、プログラムに夢中になっていることだろう…。世界を制するために。
ホロコースト
アウシュビッツ
いろんな救出劇があります。
ISISにもそんな人道者がいることを祈ります。
アウシュビッツ強制収容所解放から70年。収容所跡地で、追悼式典が行われた。式典には、生還したおよそ300人をはじめ、ドイツのガウク大統領やフランスのオランド大統領など49ヶ国の代表が参加した。現在はアメリカに住む生還者の男性は「この恐ろしい体験は一瞬足りとも忘れることができない」と述べた上で、「偏見や憎悪が広がった時、何が起きるのか次の世代に理解してもらわなければならない」と強調した。出席者たちは最後に記念碑の前でろうそくを並べ、犠牲者を悼んだ。
ポーランドの首都ワルシャワに住むエウゲニュシュ・ドンブロフスキさんは、大戦末期の1944年にアウシュビッツ強制収容所に送られた。解放記念日の前日、ドンブロフスキさんは収容所に足を運んだ。収容所内は寒さや飢え、看守の暴力により極限状態にあり、ドアのノブに触れるだけで当時の残酷で恐ろしい体験が蘇ってくるという。
ドンブロフスキさんがアウシュビッツ強制収容所に送られたのは16歳のときで、ユダヤ人をかくまっていたとして母親や兄弟とともにナチスに逮捕された。ナチスに連行された子供の年齢は6ヶ月から18歳、その数およそ700人で、人体実験により命を落とす子どももいた。ドンブロフスキさんは当時を思い返して「殴られても蹴られても我慢しなければならなかった。戦争が終わり、自由になることを望んだが、戦争はなかなか終わらなかった」と語る。ドンブロフスキさんは終戦まで4つの収容所を点々とし、幸い家族はみな生き延びたが、恐怖は現在も忘れられないという。解放から70年、ヨーロッパではテロの脅威が高まり、対立と分裂が深まる懸念が広まっている。ドンブロフスキさんは悲痛な経験に苦しみながら、「若者たちに決して戦うのではなく、対話によって問題を解決するよう訴え続ける。それがアウシュビッツ強制収容所を体験した私達の役目」と訴える。