NHKの大河ドラマをすべて視聴するなんて、絶対に思わなかったけれど、この「龍馬伝」だけは特別だ。
三菱の創始者 岩崎弥太郎による語りおろしによるストーリー展開。司馬遼太郎さんの竜馬がゆくの展開とひと味もフタ味も違う。弥太郎という龍馬の竹馬の友が観てきた龍馬像がここにはある。
南アに行っていた一ヶ月分の「龍馬伝」を録画でみて、ようやく今週の龍馬伝に追いついた。
第28回「武市の夢」
時は1865年、米国で、リンカーン米大統領がフォード劇場で狙撃され(リンカーン大統領暗殺事件)され、シークレットサービスが財務省によって設立された年。ジュール・ヴェルヌ「地球から月へ」連載開始した年である。
2人は幽閉されながらも、吉田東洋の暗殺については黙秘を続け、以蔵は連日の拷問を受ける。しかし、尊王攘夷の仲間と、武市半平太を守るためにその拷問を以蔵はあえて受け続ける。
龍馬が、彼らを守るために、大芝居をうち、犯行を名乗りあげたが、土佐の大殿様である山内容堂は、武市に事件の真意を問う。
容堂が直々に牢に出向いて、同じ床で話をすることにより、武市はすべてを容堂に告白する。
ここで、どうして武市は信じて疑わない藩主なまでも、今までの以蔵の拷問を耳にして、目にしていながらも、すべてを告白してしまったのだろう。
大殿様が同じ立ち位置でということに、しかも武士の家来として認められ、切腹を命じられたことにより、舞い上がってしまったようだ。あまりにも、センチメンタルなシーンだった。
そして、以蔵が、愛されたくて愛されたくて、たまらなかった武市への純粋で無垢な愛情ともとれる拷問への我慢があまりにも無駄になってしまった。
※実際の史実では以蔵も自白したそうだが…。
さらに、武市が送った殿に認められて喜ぶ手紙を読んで、以蔵までが、報われるシーン。
ここで、ボクはもう、我慢できなくなった。それでは、以蔵がかわいそう過ぎる…!
以蔵は武市の喜びを、唯一無二の喜びとして共有してきた。自分を認めてくれたのは武市だけであり、龍馬は以蔵にとって、雲を掴むようなワケのわからない人であり、自分の心を揺り動かしている張本人だったのかもしれない。
以蔵は、耐えて武市に役立てた、自分に喜びをも感じ、武市は武市で、容堂に「腹切りや」と、武士としての責任の取り方に涙する。
この日本人の持つ、自己の命よりも、忠義に対するメンタリティは、とうてい現在の世界では理解されない。
そう、社会がそれを美徳として、受け取り、その忠実なる姿勢を評価していたからだ。しかし、龍馬だけはその理不尽さに、気づいていた。
天皇陛下万歳!で神風として突撃していった人たちと同様のセンチメンタリズムがその社会では、ダンディズムだったのだ。
ボクたち、日本人はついつい、その潔さを良しとする傾向があるが、ボクも決してそうではないと思う。
国家や上司、上長のために命を捨てるというのは、決してカッコいい死にざまではない。
命と引換に、責任を取らせるやり方は、今の政治の世界でも同じだ。
辞任することは、何も責任をとっていない。
自分の職を賭すというのは、無責任きわまりない行動に思える。
命の生に、しがみついてでも、問題解決を図るのが、霊長類の本来の知恵のはずだ。
貪欲に、生について永遠の延命を願うのが霊長類なのだ。それが、医学を、技術を、環境を、進化させてきた。
死んでお詫びをする、死んでお詫びをさせるというDNA精神は、もう19世紀末だけで十分だ。
誰も、それで喜ぶべき人はいない。
山内容堂でさえ、後に、武市に対して、維新後、殺してしまったことを何度も悔いていたという。その後、病床にあった時には「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられている。
人の命を奪ったものは、その命の分まで背負って、自分の生き様で報いを果たさなければならないのではないだろうか?