やってみなはれ やらなわからしまへんで サントリー創業者 鳥井信治郎 マッサン 鴨居商店 鴨居欣次郎

NHK「マッサン」での鴨居商店 鴨居欣次郎の「やってみなはれ!」を見て、サントリー(寿屋)創業者の鳥井信治郎さんを目の当たりにしているように感じている。

「マッサン」は、ニッカの大宣伝効果があるようにも見えるが、今のところ、サントリーの社史をずっと見ている気がする。

堤真一の大将の演技も、サントリーの良さを見事に演出していると思う。


鴨居欣次郎役の堤真一

マッサンとのやり取りの中での、説法が特に良い。

「いいウイスキーって何や?」

「わてらは、客が喜んでもろてなんぼやろ」

「やってみなはれ やらなわからしまへんで」

鳥井信治郎は20歳で独立、鳥井商店を興し、ぶどうの輸入販売を始める。日本人の口に合う甘味ワインの製造・販売に成功、国産ウイスキー作りに挑んだ。
 苦難を乗り越えて国産の洋酒を広く根づかせた。部下への指示はいつも「やってみなはれ」。自らも挑戦心こそ企業活力の源泉であると考え、そのことを体で示してきた。
 「陰徳あれば陽報あり。言に怯にして行うに勇あり」
 これも彼が大切にした言葉である。
 「開拓魂や。寿屋の創業以来の精神やで。そやなかったら、アメリカにもヨーロッパにもあれへん、英国だけにしかないスコッチタイプのウイスキーをつくろうなんて考えてへん。やってみなはれ。やらなわからしまへんで。酒ちゅうものはみな生きてま。どんな酒かておいてみなはれ」
 この言葉のなかに鳥井の教えのすべてが含まれているといってよいだろう。
寿屋は創業のときから品質第一を経営姿勢としてきたので、信治郎の新製品にかける情熱はなみなみならぬものがあり、“信治郎の鼻”は言葉のうえで表現できないほど活躍してきた。

 その信治郎は大正の時代に入ると、ウイスキーに対して野望が芽生えてきた。研究に研究を重ねた結果、大正12年10月、京都の山崎でついにウイスキーづくりを始めた。「洋酒づくりをするなら、洋酒の王者なるウイスキーをづくりをやらねば……」と長い間考えていたが、ようやく実現の運びとなったわけだ。
 ウイスキーの貯蔵にもってこいの条件を備えた山崎に工場をつくり、さらに竹林の下を流れない地下水を得、苦闘を重ねた末に昭和4年4月1日、待望のサントリーウイスキーの第1号が発売された。
 条件にこそ恵まれていたが、初めての試作品を口にした時、お世辞にもうまいとはいえなかった。しかし、信治郎はそれに屈せず、もう一度原点に返って研究し直した。
 やってみては考え、やってみては修正し、まさに度胸とパイオニアスピリットが今日のサントリーの礎を築いてきた。

 鳥井の人生を振り返ってみると、明治12年1月30日、大阪鐘町の両替商の家に生まれた。学校の成績は良かったが、暴れん坊のほうだった。商業学校を2年修め、13歳の時、薬種問屋小西儀助商店に奉公に上がる。
 信治郎はこの店で調合の技術を学んだが、このことが後にウイスキーづくりに欠かせない天与の資質“鳥井信治郎の鼻”をつくることとなった。そして明治 33年、父の死によって戻り、家督を継ぐ。そして25年、西川定義という人と共同経営で寿屋洋酒店を名乗るようになった。
 それから、先に紹介したよう信治郎は天与の鼻を生かして調合に没入し、その結果として「赤玉ポートワイン」をつくった。太陽や日の丸の国旗などからその名をとったものだ。そして宣伝広告の面にも目を開き、47年7月に初めて新聞広告をだした。

このポスターを企画した片岡は、もともと森永製菓の宣伝部長。会社員の平均給料が40から50円だった時代に、信治郎は森永の2倍、300円の給料を気前よく支払ったという。当時は宣伝部の第一次黄金時代。戦後は二代目社長の佐治が、後に作家として大成する開高健や山口瞳を迎え、第二次黄金時代を築いた。いまでもサントリーの意表を突く広告がよく話題になるのは、信治郎の宣伝精神が引き継がれているからだ。

  1920年、英国以外でウイスキーを造る計画は荒唐無稽と思われていた。何しろ仕込みから商品化まで何年もかかるうえ、きちんとした製品になる保証はない。信治郎は全役員の反対にあった。
 「赤玉ポートワイン」の販売で得た利益をつぎ込みたいという信治郎に対し、監査役の工藤嘉一郎は「将来のものになるかどうかわからない仕事に、全資本をかけることはできない」と抵抗。経営者仲間だった味の素の鈴木三郎助も「やめておけ」と助言したという。
 反対の声を聞けば聞くほど、信治郎は事業家意欲を燃やした。
 「だれもできない事業だから、やる価値がある」
 さっそく三井物産に英国の醸造技師の紹介を求め、自らは北海道から九州までの工場適地探しに走り回った。

 初めて世に問うた国産ウイスキーは「サントリーウイスキー白札」昭和4年4月1日のことであった。太陽を示す「サン」の下に自分の名前『トリー』をつけた。しかし、さっぱり売れなかった。信治郎の求めで試飲した人は「焦げくそうて、飲めまへんわ」といって、顔をしかめた。その後のさまざまな努力をつみ、品質改良への努力が実り、ウイスキー事業に目鼻がついたのは「角瓶」を発表した昭和12年ごろからだったというドラマもつけ加えておこう。
 1960年、自宅で静養中だった信治郎は、ビール事業への進出の決意を告げにきた次男の佐治敬三社長に、「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ」と申し渡した。現社長の信一郎もそうした「やってみなはれ」の精神を汲み、「ベンチャー精神あふれる中堅企業」という先達経営者の描いた社風に磨きをかける日々のようだ。

http://www.jmam.co.jp/column/column12/1188290_1513.html