I am KENJI #iamkenji campaignは後藤健二さんの「やさしさ」の意思に賛同するということ

Je Suis KENJI I am KENJI #iamkenji campaign

https://www.facebook.com/IAmKenjiGoto

最初はJe Suis KENJIとフランスの言論の自由を守る意味の模倣で、はじまったキャンペーンだけれども、日本人の I am kenji はそれではない。 もちろん開放を唱えるものでもあるが、同時にボクはこの後藤健二さんのメッセージに強く賛同する意思表示であると思う。

いま、一度、後藤健二さんのメッセージを想い出してほしい。

何が起こっても、責任は私自身にあります。シリアの人たちに責任を負わないようにしてください
とビデオメッセージに残した。

彼の心情を尊重すると、憎しみは、さらなる憎しみしか生まないということを理解しておくことが重要なのだ。もちろん、彼の生還を祈りつつも、万一の事も想定しなければならない。

野党がそれをネタに与党を追求する材料にするのもあさましいので忠告しておきたい。追求するよりも、与党と協力し、野党らしい建設的なアイデアをだすべきだ。政治の足をひっぱるだけの野党はいらない。

後藤健二さんの生前ダイイングメッセージの精神を尊ぶならば、誰も憎まない平和的な解決策を一番望んでいることだろう。

ひとりひとりが、I am KENJI の精神で耐え忍ぶこと

「誰も憎まない」

それが極めて平和を愛する日本の日本人 後藤健二さんの #iamkenji の精神だと思う。

 

ボクのこの写真は、2004年2月、フセイン政権が倒された時のイラクのバグダッドから。その翌月に邦人が3人拘束され「自己責任」と小泉元首相が口火を切った。紛争地帯にはいるジャーナリストやNGOはそんな自己責任なんてことを他人に言われる前から当然覚悟の上だ。自分の命を賭してでも訴えたいこと、助けたいことがあるからだ。それこそ表現の自由の最終形だ。

IamKENJI 私はKENJI  イスラム国にも日本人の平和的精神が届くことをのぞむ。

そして、「1.金は出すけど手は汚さない」「2.金も出すけど手も汚す」「3.金も出さずに手も汚さない」「4.金も出さずに手だけを汚す」

四択問題でどれが一番、日本人らしかったのだろうか?

野党はもっとここを議論すべきだ。責任問題と世論の利用をする政治利用だけは万一のことがあってもやめていただきたい。後藤健二さんは決して喜びはしない。

後藤さんらしきメッセージで「人質を解放すれば、私も助かる」…の台詞は、I am KENJIであれば、絶対に言わないだろう。それが日本男子であり、ジャーナリスト後藤健二だからだ。

「私はKENJI」の平和的解決手法の精神は、イスラム国にも屈することなくこれからのテロに対する精神的支柱をギフトしてくれたと考えたい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kandatoshiaki/20150125-00042524/