1939年、シリコンバレーの歴史の発祥は、ヒューレット・パッカードのガレージであった。
そして、その年に一番、最初の発注をしたのが、ウォルト・ディズニーだった。
ウォルト・ディズニーは、『白雪姫』で世界初の長編アニメ(1937年)で大成功し、『ファンタジア(1940年)』で誰も聞いた事のないステレオ録音による最初の映画を作ろうとしており、オーディオ発振器を8台、ヒューレット・パッカードに発注した。
一切セリフなしのステレオのクラッシック音楽だけによるアニメ作品である。
ステレオ効果が利用された最初の映画で、なおかつサラウンドの原型ともいえるステレオ再生方式が世界で初めて一般的に導入され実用化された面においても、音響技術において非常に重要な歴史的映画である。最初に上映された際には前方3チャンネル(左、中央、右)のミキシング音声によるステレオだったが、再生に当り複数のスピーカーを劇場内に配置し、各チャンネルのスピーカーごとに違う音を出して、音の立体感を出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファンタジア_(映画)
11人の監督、60人以上のアニメーター、100人を超えるオーケストラ、1000名を超えるスタッフが3年を費やして制作したディズニーの最高傑作との呼び声も高い歴史的名作。クラシック音楽とアニメーション映像の融合という点では、70年前の作品ながら一つの頂点を極めており、当時としては斬新な立体音響を採用したことも話題になった。2011年に発売されるブルーレイ版では、さらなる高音質・高画質に仕上げられている。
なんといっても、その時代が1939年である。
アメリカでは大恐慌(1029年)後の、ルーズベルト大統領のニューディール政策(1933年 – 1937年)直後。
日本では、昭和14年(1939年)である。
満州事変 昭和6年(1931年)
支那事変 昭和12年(1937年)
ノモンハン事件 昭和14年(1939年)の時期だった。
日本放送協会が昭和15年(1940年)開催予定の『オリンピック東京大会(※支那事変のため非開催)』での本放送に向け、当時、テレビ開発の権威だった浜松高等工業学校の高柳健次郎教授を招いて実験。
米国は1941年(昭和16年) テレビ放送開始
テレビ放送は、戦争のため1953年(昭和28年 2月1日NHK 8月28日日本テレビ)まで開始されなかった。
米国よりも、12年一回り遅れのスタートだった。
我が父、神田友治(1931年生まれ)は7歳の子供の頃、その頃にテレビはないが、映画のディズニーはよく見たという。
同じ年代のアメリカのホストファミリーの知人は、南北戦争(1861年〜1865年)以降は、戦争は外国へ行って戦うことを意味する。
ハワイの真珠湾攻撃(1941年12月8日)といってもアメリカ本土から遠く離れている。
父母のメディア体験は子供の代の文化面にまで影響を与える。
軍国主義の大日本帝国の中、終戦(1945年昭和20年)まで 『欲しがりません勝つまでは』の精神が続いた。
そして、父母のその言葉は、ボクの幼少期にずっと影響を与え、一体何に勝とうとするんだ…の疑問をいだき続けた。
あいにく、ディズニー本国での「ファンタジア」はヒットしなかったが、後世で評価される。しかし、ディズニーは成功と非成功のくりかえしで成長を繰りかえし、米国の文化、シリコンバレーの発展と経済の右肩成長を作った。
もしも、日本にも『戦争』がなかったらというSF映画があってもおもしろいと思う。
日本とドイツが戦争に勝っていたらという『高い城の男』のもしも戦争がなかったら日本は?という視点の映画は日本人以外作れない…。
その後のシリコンバレーのヒットは…、
ヒューレット・パッカード モデルで生まれた ショックレー研究所、 フェアチャイルド セミコンダクターで開花し、インテルやAMDを生み、アップルコンピュータを生み、ヤフーを生み、グーグルを生んだ…。
もしも、日本に戦争がなければ…ディズニー作品で父母たちはもっとお気楽に映画にダンスに夜遊びに、クルマにデートに、きっと僕ら世代はミレニアル世代と同様だったのだろう。そして、ボクたちの子供に、孫ももっと変化していく。
アメリカの文化をコピーするだけでなく、リアルタイムにアメリカと日本の文化のハイブリッドなカルチャーを生み出していたことだろう。
しかし、もはや、戦争を体験した人がいなくなり、戦争が『歴史』となった世代が新たなシリコンバレーのものまねでない文化を作る。そのためには、ウォルトディズニーのような果てしない夢を抱くクレイジーな起業家が必要なのだ。