ISの脅威が増すとトランプ支持が強まる図式。カーターVSレーガン大統領選に酷似している1979年イラン・アメリカ大使館人質事件


1979年11月にイランで起きたイラン・アメリカ大使館人質事件。
https://ja.wikipedia.org/wiki/イランアメリカ大使館人質事件
Iran hostage crisis

ISによるテロの脅威が増している…。それと同時にドナルド・トランプ候補のビッグマウスが取り出される…。

トランプ氏対テロ過激化「核使用が最後の手段」
トランプ氏は23日、米通信社ブルームバーグのインタビューでイスラム過激派組織「イスラム国」への対応について、「あえてはっきり言えば、核兵器が最後の手段だ。私はどんな可能性も除外しない」と主張。テロ容疑者への「水責めを行う」とした22日よりも発言をさらにエスカレートさせた。

これに対し、民主党の指名候補争いで優位に立つヒラリー・クリントン前国務長官(68)はカリフォルニア州での講演で、トランプ氏の発言について「深刻な誤りだ。イスラム教徒をすべて悪者扱いするような扇情的な論法は役に立たない」と批判した。
http://www.yomiuri.co.jp/world/20160324-OYT1T50105.html

この構図は、民主党のジミー・カーター大統領の頃のイランアメリカ大使館人質事件の時に、ロナルド・レーガン大統領候補が強気の奪還作戦を論じていた頃に酷似している。

ジミー・カーターは弱腰の交渉とされ、ロナルド・レーガンは強いアメリカである必要性を説いた。
ジミー・カーターの奪還作戦は失敗に終わり、レーガンの就任式に人質は開放されるという演出まで施されたのだ。

なんだかISの脅威が増せば増すほど、彼らに一切干渉しないというトランプの政策のほうが米国民にとっては安心を担保させる。それはアメリカが世界の警察を辞任し、普通の国になるということを意味している。

現オバマ政権で、対応できなかったISによる脅威は、そのまま民主党ヒラリー・クリントン候補に受け継がれる。なぜならば、彼女は前国務長官(現ジョン・ケリー)だったからだ。まさにジミー・カーター政権と同様に解決できないままの状況を引き継いでいる状況といえる。

反対にイスラム教、そのものまで敵対視するドナルド・トランプ大統領候補のアメリカ白人WASPの利益第一主義。おそらくISに対しても、彼らに構わないという戦略に放置する可能性が高い。そう、ISのゴールは、十字軍に占領された元イスラムの国家を取り戻すことにあり、アメリカには直接関係がないからだ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/ISIL#/media/File:Claim_to_power_of_ISIS.png
ISが取り戻したい領土にアメリカは含まれていない。アメリカにとって他国に干渉しなければ、平和が維持できると考えられなくもない。

ISに関わりたくない層が、ISが自爆テロで暗躍すればするほど、トランプ支持へ変わる可能性が高くなる。

ジミー・カーター政権時におきた、イランのでの米国大使館での人質事件は、レーガンの就任式に開放された。

クリントンがISに向けてのメッセージを流すならば…

歴史的な『たられば論』になるが、もしも、共和党のジョージ・W・ブッシュではなく、民主党のゴア大統領が誕生していたならば、2003年のイラク戦争の介入は歴史的になく、ISを結果として誕生させることになかった…というような主張もできなくもない。
ISが生まれたのは共和党のせいだというネガティブキャンペーンもできなくもない…。
今のところ、ヒラリー陣営は、批判することよりも自力ですべて乗り越える選択をしているようだ。

ジミー・カーター(民主党)第39代アメリカ合衆国大統領
1977年1月20日 – 1981年1月20日

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジミー・カーター

ロナルド・レーガン(共和党)第40代アメリカ合衆国大統領
1981年1月20日 – 1989年1月20日

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロナルド・レーガン

カーター大統領の人質救出作戦の失敗

アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、元国王を1979年12月5日にアメリカから出国させパナマへ送ることで事態の打開を図った。しかし、ホメイニー率いる保守派が実権を握るイラン政府は大使館の占拠を解くどころか、それを支援するなどアメリカに対して強硬な態度を取り続けた。
これに対してカーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと、ペルシャ湾に展開した空母と艦載機による「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力による人質の奪還を試みた。
しかし、作戦開始後に作戦に使用していたヘリコプター、シコルスキー・エアクラフトRH-53D シースタリオンが故障した上に、ロッキードC-130輸送機とヘリコプターが接触し、砂漠上で炎上するという事故が起き作戦は失敗した。これによってイラン政府はさらに態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。
その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーターが共和党のロナルド・レーガンに敗北した。その後イランは仲介国と人質返還でアメリカと合意し、レーガンが就任しカーターが退任する1981年1月20日に人質は444日ぶりに解放され、アメリカ政府が用意した特別機でテヘランを後にした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/イランアメリカ大使館人質事件