ミツカン 7人の中埜又左衛門の挑戦 創業200余年 1804年19世紀 愛知県の企業

Toshiaki Kanda 2015年08月24日 月曜日
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ミツカンという会社のチャレンジの歴史にあらためて驚いた。

お寿司の歴史を求めていろいろググっていると思わぬミツカンの社史にランディング。

『酢』以外のいろんな事業のおかげで、『ぽん酢』『納豆金の粒』『追いがつおつゆ』などのヒット商品を生み出している。ユニークな会社であり、日本を代表する世襲型の200年企業だ。

江戸前寿司のブームの先見性

文化元年(1804年)。尾州知多郡半田村から、江戸に向け旅たつ酒造家がいた。その人物こそ、今日のミツカンの基礎をつくった初代中野又左衛門である。酒つくりのかたわら、酒粕から“粕酢”を造り始めた又左衛門は、江戸での見聞から自らが手掛ける“粕酢”の可能性を確信。以来、200余年の時を経た平成の世まで、初代又左衛門が注いだ情熱とこだわりは、ミツカングループの企業スピリットとして脈々と受け継がれてきた。
http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/

創業1804年。愛知県から酒造りのかたわら、酒粕から『粕酢』を作り、『早や寿司(元は“半熟れ”寿司)』という江戸の流行りの屋台型のファーストフード『江戸前寿司』においしくなる酢を提供したのが、ミツカンのはじまり。
http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/01.html

関西の熱処理した魚を箱に詰め糖度の高いシャリで作った押し鮨ではなく、酢の殺菌作用を活かし、冷蔵庫も氷もなかった時代に、生魚を食す文化を創った。愛知県から江戸へむけて海運という酒造業の流通ノウハウが生き、江戸前寿司でブランド『山吹』を築く。

ミツカンを変えた出来事


http://www.mizkan.co.jp/story/change/

ミツカンはそれだけでなく、新規事業にも意欲旺盛だった。

ミツカンのビール事業『カブトビール』全国5位のシェア


四代目は本業の一方で酪農や海運会社など異業種へも積極的に参入していった。そのひとつがビール事業であり、明治22年(1889年)には「丸三麦酒」と名付けたビールを初出荷。その販売を担って、3年後、名古屋に「丸三商店」を、同年に半田倉庫を設立し、物資の保管・輸送の一元化を図った。ビール事業が軌道に乗り始めた明治28年(1895年)、四代目は志半ばに、42歳という若さで短い生涯を終えた。
http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/04.html

明治31年(1898)には、今も半田の地に残る赤レンガ造りのビール工場を建設し、この工場から新ブランド「カブトビール」が生まれます。醸造設備から原料に至るまで本場ドイツから取り寄せ、あくまでも本格派ドイツビールの味わいにこだわりぬいた「カブトビール」は、その後、「恵比寿ビール」などに次ぐ全国5位のシェアを占めるまでになったのでした。
http://www.mizkan.co.jp/story/change/04.html

五代 中埜又左衛門は、先代が創業した丸三麦酒を株式会社化し、その社長を兼ねることになる。今もその一部が残る赤レンガの近代的なビール工場を建設。最新の醸造機械も原料も本場ドイツから輸入して、本物のビール造りにこだわった。ビール銘を「丸三麦酒」から「カブトビール」に改めた。しかし、当時のビール業界はすさまじい競争時代のまっただ中にあった。カブトビールは、日本麦酒(恵比寿)、大阪麦酒(アサヒ)、ジャパン・ブリュワリー(麒麟)、札幌麦酒(サッポロ)という大資本を向こうにまわしながらも善戦していた。
明治39年(1906年)巨大な大日本麦酒(戦後は現サッポロと現アサヒに分割)が合併により誕生するなどトラスト化の動きを見るや、五代目は一転してビール事業を売却。この先の経営難を見越して大英断を下すことになる。
それはミツカンにとって過去にない経験であった。伝統的な酢造りの業界に、醸造業の先端を行くビールのノウハウを持ち込んだことは、決して無駄なことではなかった。 たとえば、明治33年(1900)年に建設された新工場(南倉)では、近代的な装置を導入し、徹底した機械化の第一歩を踏み出している。また、同年にドイツに醸造技術習得のため社員を派遣。その帰国を待って、明治35年(1906年)に醸造試験所を開設し、食酢醸造技術の改良にも努めている。いずれも、ビール事業を通じて得たノウハウが本業に計り知れないメリットをもたらした例といえるだろう。
http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/05.html

ミツカンの金融事業 中埜銀行(東海銀行)創設

五代目、又左衛門は代々、家業である酢造りを大切にしつつ、常にその時代に必要とされているものは何かを考え、又左衛門家だけでなく半田という地域全体を発展させる道を模索していました。
その代表的なものが、五代又左衛門が明治34年(1901)に設立した「中埜銀行」です。当時にして20万円という大金を資本金としてスタートした中埜銀行は、又左衛門一族の安定した資金力をもとに、地元のさまざまな企業をサポートし、地域振興に大きな役割を果たします。一方で、名古屋電灯とも協力関係を結び、半田のインフラ整備に乗り出します。
http://www.mizkan.co.jp/story/change/05.html

五代目は堅実守成の人であったが、現状に満足することなく、西と東の生産拠点強化にも奔走した。明治38年(1905年)には尼崎工場を設立し、関西での生産基盤を確立。そのころ、すでに中埜一族は共同出資による銀行「中埜銀行」を設立しており、一連の融資は「中埜銀行」がバックアップを行った。(中埜銀行は昭和13年に、国策により名古屋の伊藤銀行に吸収され、のちに東海銀行となった)
http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/05.html

東海銀行は、2002年2月に三和銀行と合併し、UFJ銀行となった。 なお、UFJ銀行は2006年、東京三菱銀行と合併し三菱東京UFJ銀行となった。

東海銀行
https://ja.wikipedia.org/wiki/東海銀行

敷島製パンの創業にも参画…現在はソニーの森田家系列

「Pasco(パスコ)」(Pan Shikishima Company)

ミツカンの中埜家と造り酒屋だった森田家は人的関係もあり、ミツカンはソニーの大株主だった時代もあった。

創業にはミツカンも出資したが、盛田家の同族企業である。ソニー創業者の盛田昭夫や造り酒屋の盛田株式会社で有名な盛田家の分家筋の盛田善平が創業家にあたる。現在の代表取締役社長である盛田淳夫は、創業者・盛田善平の曾孫であり、また、安倍晋三首相とは成蹊大学アーチェリー部の同窓である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/敷島製パン

ミツカンミュージアム MIM

http://www.mizkan.co.jp/mim/

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