1月17日、 阪神大震災と9.11の教訓」

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新潟県中越地震で被災された方々に心からエールを送らせていただきます。

あれから10年を迎えましたが、同じような事がまたもや繰り返されようとしている。

義援金とボランティアの問題だ。

ボクは、好むと好まざるに関わらず、大惨事に巻き込まれそうにながらも、 いつも寸前のところで、いろんな神々に助けられている。

一番最初に、この「運」に気づいたのは忘れもしない1985年8月12日のことだっ た。
ボクは東京でワインマーケティングの仕事で、まとまった休暇をもらい社会人に なって、はじめて新幹線よりも料金の高かった飛行機で神戸に帰省しようと突然、 思い予約もなく羽田へと向かった。帰省ラッシュに沸く空港では、どの飛行機も スタンバイだらけ。羽田-伊丹のJAL123便は、幸運にも4番目のスタンバイであっ た。飛行機に搭乗しているイメージを持ちながら、順番に並んだ。しかし、あと 2人のところで123便には乗ることができなかった。その後の飛行機もすべてスタ ンバイなので、満員の新幹線で帰ることにした。実家に戻ってテレビをつけると 日航機の123便は、御巣鷹山の尾根に消えていた。

1994年1月16日、深夜にシリコンバレーを出て、101号線を南下し、ロスに到着し たのは夜明け前であった。サンタモニカフリーウェイをわたり、常宿のトラベロッ ジモーテルにチェックインして、少しだけ仮眠をはじめた直後、信じられないほ どの、ものすごい揺れで目を覚ました。ロサンゼルス(ノースリッジ)地震であっ た。マグニチュード6の体験は、自分が揺れるのではなく、家から投げ出される 思いであった。壁がきしみ、家中が低い轟音を立てる。ほんの数時間前に走った サンタモニカフリーウェイは、SF映画のように崩壊していた。

1995年1月17日、1年前のロサンゼルスの地震の回復ぶりを取材の立場で見届け たあと、15日に帰国し、神戸の自宅のスタジオで、そのロス地震のビデオを編集 し終え、ベッドにもぐりこんで眠りに入った。すると、同じレベルのマグニチュー ドに襲われてたたき起こされた。海外のモーテルとちがって、ありとあらゆる私 物で覆われた自分のスタジオが揺れによって凶器と化した。阪神大震災だった。

震災後、3日目くらいからボランティアがあらわれるようになった。1週間もすると全国からボランティアがこぞって集まってくるようになった。テレビやメディ アがボランティアの成果をたたえる。また、ボランティアが増える。 ボクの住む兵庫区(長田区のとなりの区)でも、ボランティアが支援活動を行うが、食事の炊き出しには、被災したご近所よりも、ボランティアが半数をも占める回があった。

確かに震災ボランティアに来ていただけるのはありがたいものだ。みんなが時間と費用を提供して、親身に世話になりにくる。そのうち、大学がボランティアをゼミの単位として認めたり、被災地で記者会見をやってから、ボランティア活動をする本末転倒なグループまで登場する。

神戸市役所には、ボランティアが殺到するが、役所にはこんな惨事を的確に指示できる人がおらず、現場の体育館などの避難所に直接やってくる。「何かお手伝いすることありませんか?」「何か手伝える仕事をください」と昼夜を問わず現れ、ご丁寧にお断りする対応に追われる。

TVがボランティアの特集を放送しだすと、仕事そっちのけで、TVインタビューに多弁になる。TVで話題になる地域にだけボランティアが殺到する。「ボランティアお断り」の張り紙が避難所に張られた時もあった。

昨日まで普通の生活していたのに、1/17日以降は「被災者の方々」と特別扱いされる。おにぎりにはもう飽きて、のどを通らないのに、テレビで2日前のおにぎりがありがたいという情報が流れる。全国からおにぎりばかりが届き、ほとんどが捨てられる。一週間もたてば、焼肉や寿司を食べたくなっても、そんな声は全国に届きもしない。

毛布が必要という情報に毛布が大量に寄せられ、市外の三木市や三田市では余分な毛布が雨にさらされ捨てられる。

また、コンビニのビニール袋2枚とティッシュペーパーさえあれば、トイレの用は足せたのに、簡易トイレが全国から山ほど届く。確かに用便時は、簡単だが捨てる時にかさばり異臭を放つ。テレビでは、何万個の簡易トイレが足りないという。コンビニの袋で十分と説明したが、邪魔な「善意」が全国から山ほど届く。

ボランティアが、被災地でブームになってしまっていた。募金運動も盛んになった。とてもありがたいことだ。しかし、実際に義援金を手にしたのは、半年もあとになってのことだ。その頃には、10数万円の義援金など、ありがたくもなんともない。失った損害は数百万規模なのだから。

しかし、その義援金を震災直後に手渡しできていたら、当座の小口現金の財布代わりに使えただろう。。食事などは、炊き出しなどで利用できるが、ちょっとした現金が心のささえになる時期はあった。

これはボクの偏見かもしれないが、どこかの団体に義援金を託すくらいなら、新潟県の現地の避難所の代表者あてに、「自由に使ってください」と直接送るべきだろう。必要なのは、未来の10万円よりも今日の1万円なのだ!

貴重な義援金だから、審議委員会を開いて、どこからも文句がないように使おうとした結果、最後には、震災記録防災センターみたいなハコ物に使ってしまうというバカげた使用用途になってしまう。また、愛すべき神戸市民は、震災をネタに甘えた生活をするものも多くなったことも事実だ。

2001年9月10日、マジソンスクエアガーデンで開催されたマイケル・ジャクソンの芸能30周年イベントの2ndステージを取材後、知人と待ち合わせをして、朝までBARで飲んでいた。このままホテルに戻ると、帰国の飛行機を寝過ごしてしまうので、荷物をピックアップして、空港で仮眠をしようとラガーディア空港に向かった。自分の予約していた飛行機は欠航になっていて、成田行きのコンチネンタルが、今なら間に合うというので、すぐにチェックインした。朝の6時であった。3時間後、中継地のヒューストンに、なぜかいつまでたっても到着しない。
空港からの着陸許可待ちが数時間続いた。その頃、WTCでは自爆テロがおこなわれていた。

ようやく着陸体制許可が出て、機内では拍手が起きる(さすがアメリカ人!)。 着陸体制にはいってから、しばらくすると機長から再度アナウンスがあり、でなんらかの理由で、ヒューストンではなく、ニューヨークにまい戻るという。機内は、ちょっと騒然となった。

機長からは状況がわかり次第、連絡するというが、その後、何も知らされない。そのうち、携帯電話を持っている人が、空の上から連絡を取り、通話中に泣き出 した。WTCで何かが起きたという。ニューヨークから飛んだ飛行機なので、WTCに関係のある人は多数いる。軽いパニック状態ではあるが、数100キロ離れたヒューストンでは、ニューヨークで起きた事故についての安否を心配するだけであった。
あとは何が起きているのかを知りたいだけだった。国防省が飛行中の飛行機に対して迎撃命令を発令しかけているなど考えるものは誰もいなかった。

無事、ヒューストンに到着して、TVの画面を見て騒然とした。行き場がなく、空港がロックアウトされた。ホテルはすべてフルで、赤十字が手配してくれたバスでメキシコ人のグループと一緒に体育館で非難することとなった。簡易ベッドが運ばれた時には、阪神大震災を思いだした。

9月13日、メキシコ人たちは、このまま戦争に起きたことを想定して何かの覚悟を決めたようだ。ヒスパニックでよくわからないが、棟梁のような人が誘ってくれたので、ダウンタウンの買出しにつきあった。プロパンガス、鉄板、食材を買い込んだ。その日の午後、ボクたちはホットドッグ売りをはじめた。そう、このまま戦争になっても困らないように外国人である彼らは日銭を稼ぎはじめたのであった。

避難所でじっとしていて赤十字のほどこしを待つ生活もあるが、すこしでも自立するつもりがあるならば行動することをこの時に学んだ。阪神大震災でも途方にくれるよりも、屋台でも大工でも何でもできるところから自立する意思は必要だったと思った。911でメキシコ人やユダヤ人の危機に関する行動力のすばらしさを身を持って体験させていただいた。

もしも、ボクが新潟にボランティアに行くのなら、屋台をもって、被災地ではあまり食べられないような贅沢なものが食べられるお店にして商売をやりにいく。 そして、その商売を被災した人に受け継いでもらえるようにできないだろうか? 金や物資を無料で提供する以外の義援の方法もあるかと思う。

将来の不安を少しでも、地域の人たちと同じ商売をやることによって、紛らわせることも必要だと思う。避難所暮らしは、時間がたてばたつほど、精神的にまいってしまうからだ。

少なくとも、短期でボランティアに行く人は、自分の食事くらいは用意していく 覚悟でいってほしい。また指示を待って動くのではなく、何が困っているかを現場で判断できる人でないと足手まとになるだけであろう。

厳しいことを言ってしまうが、阪神大震災と9.11の教訓を活かしてほしい。 






 

 

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